徳川御三家として栄えた紀伊の地では、紀伊狩野を中心とした御用絵師の系譜が長く続いたが、従来の絵画に飽きたらず新しい表現を探った儒者・祇園南海らを始祖とした南画家の登場や、様々な師系や独修の画家たちが活躍した。
近代に入ると、日本美術院創立に参加して日本画の革新を目指した下村観山(1873-1930)や、日本美術院を出て青龍社を結成、のちに文化勲章を受章する川端龍子(1885-1966)らが中央画壇で活躍した。また、国画創作協会の創立に参画した野長瀬晩花(1889-1964)や、独学で南画を学び、57歳で医師から転身して東洋古典南画と西洋後期印象派との融合を目指した日高昌克(1881-1961)など、個性的な日本画家も輩出している。
参考:UAG美人画研究室(下村観山)
参考:UAG美人画研究室(野長瀬晩花)
日高昌克(1881-1961)ひだか・しょうこく
明治14年和歌山県日高郡御坊町生まれ。医師・木村元寿の長男。35年和歌山市の親戚に入籍し池田と改姓した。38年京都府立医専を卒業。在学中に水彩画に興味を持ち独習した。44年和歌山市南汀町に耳鼻科医院を開業。大正3年、郷土の日本画家・坂井芳泉について四条派を学ぶが、一年余りで画風に嫌気がさし、南画の描法を独習する。以来数年間は南画、北画、浮世絵などの模写に没頭する。大正5年、勝田蕉琴が和歌山に三か月の漫遊に来た際に設色の法を学んだ。
大正6年、36歳の時に、橋本関雪への入門を試みるが、関雪の豪壮な邸宅を見て嫌気がさして入門を断念。翌7年には富岡鉄斎を尋ね弟子入りしようとしたが、鉄斎は、昌克が博物館で名作の模写をしたり、山に登ったり、各地を旅行したりして勉強しているというのを聞いて、絵の勉強には師匠につくより、名作や自然を師とするほうがよいと諭した。それから昌克は熱心に美術館通いをはじめ、雪舟、王石谷、牧谿、浮世絵などの名品を模写し、西洋の後期印象派、特にセザンヌやゴッホの作品にも深く傾倒していった。その頃、当時国画創作協会を作って日本画界の革新運動を起こしていた土田麦僊、村上華岳、榊原紫峰、入江波光らとも知り合い、その影響を受けた。
昭和12年5月、東京の資生堂画廊で第1回個展を開催、翌13年、57歳の時に医院を廃業して、東京に出て画道に専念、無所属で個展を中心に活動した。昭和32年10月には、当時の和歌山大学学長・岩崎真澄の紹介により米国フィラデルフィア美術館美術大学をはじめ、サンチャゴなどの美術館で展覧会を開催、その反響は『日高昌克 米国個展記念特輯』に詳しい。
晩年は家族を和歌山に残し、紀ノ川流域随一とされる景勝地・背山の里に閑居し画業一途に良き、昭和36年、79歳で死去した。
日高昌克は『日高昌克 米国個展記念特輯』で自分の画家としての姿勢や目指すところについて次のように記している。(以下引用)
画家としての私の念願は東洋古典南画と西洋後期印象派との融合を成し遂げ、私独自の画風を打ち立てたいという柄にもない慾望だった。瞑想的感想的で規律に覇束さるるのを欲しない私の性格がこうした画境に憧がるることは当然である。中国晩唐張彦遠が説かれた「外は造化を師とし、内は心源に得たり」という作画の理念と、後年西欧のセザンヌのいう「目を開いて自然を見、眼を閉ぢて自然を見る」というこの東西共通の、物象を心眼で見るとする理論は夙に私が抱懐せる表現形態だったのである。また南画の始祖とされている五代董源の画を評した沈括の言葉「近づきこれを覩れば幾んど物象に類せず、遠観すれば即ち景物燦然、幽情深思、異境を覩るが如し」もまた私の画境に通ずるものであり、中国古典の南画と、西欧後期印象派の統一こと私の衷に潜む画魂を勇躍せしめたのだった。
和歌山(14)-画人伝・INDEX