画人伝・滋賀 狩野派 中国故事

京狩野の祖・狩野山楽

狩野山楽「黄石公張良虎渓三笑図屏風」(部分)東京国立博物館蔵

狩野山楽「黄石公張良虎渓三笑図屏風」(部分)東京国立博物館

狩野山楽(1559-1635)は、近江浅井家の家臣の子として近江国蒲郡に生まれた。父の木村永光は、浅井長政、豊臣秀吉に仕えた武人で、余技で狩野元信に画を学んだという。山楽は15歳の時に父の縁故で秀吉の小姓となったが、秀吉に画才を認められ、狩野永徳の門に入り本格的に画を学んだ。

狩野永徳に入門して以来、30歳頃までの山楽の活動は明らかになっていないが、天分の画才を発揮して永徳や秀吉の信頼を得たと思われ、狩野姓を名乗ることを許され、師の永徳が48歳で没した後も、狩野一門の中心画家として伏見城、大坂城、二条城などの城郭や寺院に障壁画を描いている。

慶長20年、山楽が少年のころから恩顧を受けていた豊臣家が大坂夏の陣で滅亡したため、山楽は一時男山八幡宮の松花堂昭乗のもとに身を隠したといわれるが、のちに徳川氏の恩赦を得て京都に戻り、四天王寺絵堂や二条城行幸御殿など徳川氏関係の画事にあたるなど、京都画壇の長老として多くの制作に携わった。

山楽のあとは長男の修理光教が家業を継いだが、光教は山楽の晩年に21歳で没したとされる。光教には弟光員伊織がいたが幼少だったためか、門人で娘婿だった山雪がその後を継いだ。永徳の孫である狩野探幽らが江戸に移り江戸狩野を形成したのに対し、山楽・山雪の系統は京都にとどまって活動したため、京狩野と称されている。

狩野山楽(1559-1635)かのう・さんらく
永禄2年近江生まれ。京狩野家の祖。本姓は木村。幼名を平三、のちに光頼。通称は修理亮。豊臣秀吉に仕え、狩野永徳に師事した。大坂城など豊臣家関連の障壁画制作に参加した。豊臣家滅亡後は江戸幕府に追われたが、のちに赦され京都画壇に復帰し幕府関連の制作事業にたずさわった。寛永12年、77歳で死去した。

狩野山雪(1589-1651)かのう・さんせつ
天正17年肥前生まれ。本姓は千賀。名は光家。通称は平四郎、縫殿助。別号に蛇足軒がある。狩野山楽に師事し、婿養子となり京狩野家を継いだ。寛永3年ごろ山楽とともに妙心寺天球院の障壁画を制作した。正保4年東福寺の「三十三観音図」を補作、法橋に叙された。慶安4年、63歳で死去した。

滋賀(02)-画人伝・INDEX

文献:狩野山楽・山雪特別展覧会、近江の画人たち




You may also like

おすすめ記事

1

長谷川等伯 国宝「松林図屏風」東京国立博物館蔵 長谷川等伯(1539-1610)は、能登国七尾(現在の石川県七尾市)の能登七尾城主畠山氏の家臣・奥村家に生まれ、のちに縁戚で染物業を営む長谷川家の養子と ...

2

田中一村「初夏の海に赤翡翠」(アカショウビン)(部分) 昭和59年(1984)、田中一村(1908-1977)が奄美大島で没して7年後、NHK教育テレビ「日曜美術館」で「黒潮の画譜~異端の画家・田中一 ...

3

横山大観「秩父霊峰春暁」宮内庁三の丸尚蔵館蔵 横山大観(1868-1958)は、明治元年水戸藩士の子として現在の茨城県水戸市に生まれた。10歳の時に一家で上京し、湯島小学校に転入、つづいて東京府小学校 ...

4

北野恒富「暖か」滋賀県立美術館蔵 北野恒富(1880-1947)は、金沢市に生まれ、小学校卒業後に新聞の版下を彫る彫刻師をしていたが、画家を志して17歳の時に大阪に出て、金沢出身で歌川派の流れを汲む浮 ...

5

雪舟「恵可断臂図」(重文) 岡山の画家として最初に名前が出るのは、室町水墨画壇の最高峰に位置する雪舟等楊(1420-1506)である。狩野永納によって編纂された『本朝画史』によると、雪舟の生誕地は備中 ...

-画人伝・滋賀, 狩野派, 中国故事

© 2024 UAG美術家研究所 Powered by AFFINGER5