UAG美術家研究所

江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま北関東地方を探索中。



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青木繁と福田たね

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青木繁「海の幸」重文(部分)

青木繁「海の幸」重文(部分)
漁師たちの行列のなかで、中央やや右のこちらを向く白い顔は、恋人・福田たねを描いたものとされている。青木繁の生涯と芸術において福田たねの存在の大きさを象徴している。

明治画壇を駆け抜け、夭折の天才画家とも称される青木繁の生涯と芸術を語るとき、恋人・福田たねの存在を忘れることはできない。ともに重要文化財である青木の代表作「海の幸」も「わだつみのいろこの宮」も、たねとの関わりのなかで生まれており、たねの存在が青木の創作意欲の源になっていたことは間違いない。しかしまた、22歳でたねと出会ったことが、青木にとっての悲劇の始まりだったともいえるかもしれない。

青木繁(1882-1911)は、福岡県久留米市に生まれ、17歳の時に画家を志して上京、小山正太郎の画塾・不同舎に入った。同時期の入門者には小杉放菴らがいた。翌年東京美術学校西洋画科選科に入学、在学中の21歳の時に白馬会第8回展に「黄泉比良坂」など神話画稿を出品し、白馬会賞を受賞した。若くしてその才能を認められた青木は、明治の洋画壇に新風を吹き込む異色の画家として大いに将来を嘱望された。

福田たね(1885-1968)は、栃木県芳賀郡水橋村(現在の芳賀町)の豊かな家庭に育ち、はじめは日光で五百城文哉に学び、さらに洋画を学ぶため上京し、同じ文哉門下の先輩・小杉放菴を頼って不同舎に入った。青木とたねは不同舎で自然に出会い、ほどなく恋仲になった。翌年の夏には、坂本繁二郎、森田恒友とともに4人で房州布良(現在の館山市)に旅行し、この旅がきっかけで青木の代表作「海の幸」が生まれた。

絶頂にあった青木の人生が暗転していくのは、9月初めに東京に戻ってきてからである。前年に白馬会賞をとったことを故郷で吹聴しすぎたためか、父は青木が画家として大成したと思い込み、姉と弟の面倒をみさせるため東京の青木のもとに送り込んできた。しかし、青木には2人を養っていく甲斐性はなく、さらに間の悪いことに秋にはたねが妊娠した。姉と弟は失望して故郷に帰ってしまい、この頃から青木の精神は荒廃へと向かっていく。

翌年、たねは第一子を出産、その子は「海の幸」にちなんで「幸彦」と名付けられた。翌年、未婚のまま親子3人で水橋村のたねの実家を訪問し、以後は福田家の援助を受けて生活することになった。ここで東京府勧業博覧会に出品するため「わだつみのいろこの宮」の制作にとりかかる。福田家は、同家の親戚にあたる近所の黒崎家の離れをアトリエとして用意し、たねも敬愛の念をもっと青木に尽くした。しかし青木は、過剰なまでに敬意をはらって青木に接していた福田家やたねを、結局裏切ることになる。

作品が完成すると、青木は最高賞をとると言い残して意気揚々と上京していった。以後青木がたねのもとに帰ることはなく、これが二人の別れとなった。結局、自信作「わだつみのいろこの宮」は、三等賞末席という結果に終わり、青木は憤慨し、雑誌で黒田清輝をはじめとする審査員たちを痛烈に批判した。この年の8月、父の危篤の報を受けて久留米に帰郷。父の臨終には間に合わなかったが、しばらく久留米に滞在した。この年の文展に出品するが落選、いよいよ失望を深めていった。

次第に久留米の家族との折り合いも悪くなり、以後九州各地を放浪しながら制作し、再び文展に出品するが落選。精神も肉体も病み、毎日喀血するようになり、福岡の病院に入院するが、無理に外出したため、それが原因で大量喀血、28年8カ月の生涯を閉じた。

たねは、青木が去ってから3年後の明治43年、地元の野尻長十郎と結婚し7人の子をもうけた。野尻の転勤に伴い、日光、大阪、大津、札幌などを転居し、昭和29年の野尻没後には再び絵を描きはじめ、示現会などに出品し、83歳で死去した。

青木繁「幸彦」栃木県立美術館蔵

青木繁「幸彦」栃木県立美術館蔵
青木とたねの子・幸彦は、戸籍上はたねの父の豊吉の子として届けられた。父青木はこの絵が描かれたとされる幸彦2歳のときに去り、そのまま戻ってくることはなかった。幸彦は長じて福田蘭堂と名乗り、尺八奏者、作曲家、随筆家として活躍した。

青木繁(1882-1911)あおき・しげる
明治15年福岡県久留米市生まれ。明治24年久留米高等小学校に入学、同級生には坂本繁二郎がいた。明治28年同小学校を卒業し、久留米中学明善校に入学、在学中に森三美に洋画を学んだ。明治32年同校を中退して上京、小山正太郎の不同舎に入った。明治36年東京美術学校西洋画科選科在学中、白馬会第8回展に「黄泉比良坂」など神話画稿を出品し第1回白馬会賞を受賞。翌年同9回展に「海の幸」を出品。明治40年栃木県水橋村(現在の芳賀町)の恋人・福田たねの実家に滞在し「わだつみのいろこの宮」を制作。同年父の死去により帰郷し、九州を放浪の末喀血、明治44年、28歳で死去した。

福田たね(1885-1968)ふくだ・たね
明治18年栃木県芳賀郡東高橋村生まれ。本名はタネ、胤とも記した。明治30年水橋高等小学校を卒業。この頃から日本画を学んだ。明治34年日光の五百城文哉の画塾に寄宿生として入門。明治36年に上京して小山正太郎の不同舎に入門し、ここで青木繁と出会い、やがて恋愛関係になった。太平洋画会に出品。明治37年青木繁らの房州布良海岸旅行に同行。明治38年青木の子である幸彦を出産、幸彦は戸籍上は父の豊吉の子として届けられた。明治40年青木が「わだつみのいろこの宮」を制作する際には、たねの実家が支援した。明治40年3月青木が同作品を東京府勧業展覧会に出品するため上京し、さらに同年8月に久留米に帰省して以来、二人は会うことはなかった。明治43年野尻長十郎と結婚。昭和29年の野尻没後再び絵を描きはじめ、示現会などに出品した。昭和43年、83歳で死去した。

栃木(21)-ネット検索で出てこない画家

文献:福田たね 青木繁のロマン









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