UAG美術家研究所

江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま東北地方を探索中。

画人伝・和歌山

紀伊の円山・四条派

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紀伊の円山・四条派としては、松村景文の門人である鎌田景麟(1808-1864)、景麟に学んだ塩谷景山(不明-不明)、挿図を多く描いた塩路鶴堂らがいる。また、月僊の門に学んだ森月航(不明-1814)も、円山派から出た一種の風格を門人たちに伝え、和歌山の画壇をにぎわした。

鎌田景麟(1808-1864)
文化5年生まれ。名は方至、字は子炳、通称は惣平。和歌山城下の北の新地の茶屋青棲の主人。京都の四条派である松村景文の門に学び、出藍の誉れとうたわれ、当時大坂の西山芳園らと共に景文門下の秀才とされた。茶屋を営んでいたことから、幕末の志士とも親交があったようで、大坂の会合に行った際に襲われて殺害されたとも伝えられる。画は景文の作風を伝え、花鳥画を得意とした。元治元年、57歳で死去した。

塩谷景山(不明-不明)
和歌山北新西仲間町の表具師。鎌田景麟に師事し、円山派の画をよくした。専ら仕入れの襖絵を描いた。

塩路鶴堂(不明-不明)
天保嘉永の頃の円山派の画家。名は義明、字は思。本草学者・小原良直の著書『桃洞遺筆』に多く挿図を描いている。他に自著として『鶴堂畫譜』がある。

森月航(不明-1814)
名は行貞、字は子暉、本姓は清原氏。豊後岡の出身だが、紀伊に永住していた。画僧・月僊の門人で、月僊の画風を伝えて人物画を得意とした。当時は野呂介石や崖熊野ら南宗画の大家が門戸を開いて庶民の子弟を教育していたが、月航はこれに対して門人を育て、円山派から出た一種の風格を伝えて、寛政文化の頃の和歌山の画壇をにぎわした。文化11年死去。文化6年刊行の「南紀若山新書画展展覧会目録」の中に奥田明斎、成田白圭、松廣月澗、木下月洲が、森月航の門人として掲載されているが詳細は不明。また、「名数画譜」の中に竹林七賢の図がある中村圭峰も月航の門人とされるが詳細は不明。

片山蘆雪(不明-不明)
安政文久頃の人。和歌山岡林泉寺町に住んでいた。円山派の画家で、よく風俗人物を描いた。谷井蘆岳の師。

谷井蘆岳(不明-1907)
通称は種八郎。別号に雙葉庵がある。片山蘆雪の門人。明治40年、59歳で死去した。

水嶋春水(1869-1894)
明治2年和歌山本町生まれ。名は秀穂、幼名は幾三郎。はじめは春汀と号し、のちに春水と改めた。父は藩の御用医師。幼い頃から早熟で、4歳で書を芳山石雨に、5歳で画を筑紫翠雲に学び、ともに出藍の誉れをうたわれた。明治21年、感ずるところあって南宗の筆を捨て、京都に出て幸野楳嶺の画塾に入り、塾長の菊池芳文について学んだが、体が弱く、明治27年、26歳で死去した。

岡崎秀巴(不明-不明)
名は信之助、別号に晴山、桂仙などがある。はじめ榎本遊谷に師事し、のちに京都で竹内栖鳳に学んだ。帰郷して画に専念したが、広隆、玉洲、白雪、介石らの偽物を作り名声が落ちたという。

中島南英(不明-1932)
名は貫一、別号に観月がある。和歌山市の人。京都絵画専門学校を卒業し、和歌山市第一・第二高等女学校で教鞭をとり、修徳学校も兼務した。京都の土田麦僊に師事し、四条派の画をよくした。和歌山黒鳥社の同人。昭和7年、33歳で死去した。

和歌山(13)-ネット検索で出てこない画家

文献:紀州郷土藝術家小傳

円山応挙: 日本絵画の破壊と創造 (別冊太陽 日本のこころ)
平凡社







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