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紀伊の円山・四条派
2025/3/26
左:森月航「花鳥図」、右:森月航「蝶図」 紀伊の円山・四条派としては、松村景文の門人である鎌田景麟(1808-1864)、景麟に学んだ塩谷景山(不明-不明)、挿図を多く描いた塩路鶴堂らがいる。また、月 ...
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紀伊の南画家たち
2025/3/26
坂(阪)本浩雪「桜花図」 紀州三大南画家である祇園南海、桑山玉洲、野呂介石を輩出した紀伊には、その門人の他にもさまざまな師系の南画家が活躍した。大江龍眠の実弟で小田海僊に師事した大江霞岳、本草学者で南 ...
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紀南田辺の狩野派・真砂幽泉
2022/8/19
真砂幽泉 左:鷙鳥図、右:紅葉に尾長鶏図 紀南田辺で活躍した狩野派の画人としては、真砂幽泉がいる。近世の田辺では、医者や学者らが余技として画を描くものはいたが、師系のはっきりした画人としては幽泉のほか ...
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狩野興以にはじまる紀伊狩野の系譜
2022/8/18
狩野興以「花鳥図屏風」 紀伊国における狩野派の系譜は、狩野光信に師事した狩野興以(不明-1636)がはじまりとされる。興以は師である光信の没後、光信の弟・孝信の子である探幽、尚信、安信の三兄弟を教育し ...
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隠れたる画家 野村訥斎
2022/8/18
野村訥斎「花鳥図」 度会郡に生まれた野村訥斎(1831-1864)は、地元の住職・慧剣に画を学んだ後、江戸に出て円山派の大西椿年に師事し、4年後に帰郷して地元で制作活動をした。その後、万延元年(186 ...
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増山雪斎と桑名の画人
2025/3/6
増山雪斎 左:黄葵に翡翠図、右:牡丹に孔雀図 桑名の画人としては、沈南蘋風の花鳥や水墨を描き、文人大名と呼ばれた伊勢長島藩主・増山雪斎(1754-1819)が知られている。雪斎は文雅を好み、十時梅厓( ...
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飛騨ゆかりの初期画人
2025/3/6
左:三熊思孝「芳野桜図」右:三熊思孝「奈良桜図」 金森長近が高山の城下町を京都に模して整備して以来、飛騨の人たちにとって京都文化は身近な存在で、高山や古川の祭り屋台にも京風文化がみられる。江戸中期に飛 ...
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近江、尾張、三河にまでおよんだ高橋杏村の門人
2022/8/15
高橋杏村「花卉図」 京都で中林竹洞に学んだ高橋杏村(1804-1868)は、のちに帰郷し、梁川星巌に漢詩を習い、西濃の漢詩人・神田柳渓と交わり、さらに昌平校の儒官・曾我耐軒が美濃に来た時に経学を学んだ ...
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美濃の南画、竹洞・梅逸の門人
2022/8/15
左:山田訥斎「玉堂富貴図」、右:片野南陽「白衣観音図」 全国的な南画の隆盛に寄与した尾張南画の中林竹洞、山本梅逸は、美濃における南画の発展にも大きな影響を及ぼした。美濃の南画家として名を残した、高橋杏 ...
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美濃の南蘋派
2022/8/15
左:山田鶴洲「木蓮に白閑鳥図」、右:日比野鶴翁「仏手柑に綬帯鳥図」 中国の画家・沈南蘋によって長崎にもたらされた写実的な画法は、当時の画家たちに新鮮な驚きをもって迎えられ、弟子の熊代熊斐(1712-1 ...
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尾張南画の歳寒三友、竹洞、梅逸、そして伊豆原麻谷
2024/12/30
伊豆原麻谷「菊花双禽図」 竹洞、梅逸と並び称され、尾張南画の「歳寒三友」の一人とされた「松谷」こと伊豆原麻谷であるが、その経歴に不明な点は多い。三河の農村に生まれ、僧侶になるはずが画の道に入り、当時最 ...
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尾張南画の全盛・山本梅逸の門人たち
2024/12/30
山本梅逸「花卉草虫図」 郷里に帰る中林竹洞と別れ、全国各地の遊歴の旅に出た山本梅逸は、京都から大坂、山陽、四国とめぐり、さらに北陸へと足を延ばし、いったん名古屋に戻ったあとは、江戸に姿を現すなど、再上 ...
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尾張南画の変質期
2024/12/30
山田宮常「花鳥図」 丹羽嘉言らによって誕生した尾張南画だが、天明6年に嘉言が45歳で死去すると、尾張南画は新たな展開を迎えることとなる。南画ばかりでなく、当時の学問や文学にまで大きな影響を残した嘉言だ ...
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尾張の狩野派・町狩野
2024/12/30
狩野派「梨木禽鳥図屏風」(部分)興正寺蔵 町狩野とは、幕府や藩には所属せずに市井に門をはった狩野派のことで、尾張の吉川家は御用絵師・清野養山の門から吉川知信が出て以来、幕末まで町狩野として家系を続けた ...
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尾張の狩野派・代々続く御用絵師
2024/12/30
神谷晴真「花車図」建中寺蔵 尾張藩主は代々、教養のひとつとして狩野派の技法を学び、狩野派の画人を御用絵師として召し抱えていた。19世紀の後半からは、神谷姓を名乗る二家系が御用絵師の列に加わり、幕末まで ...
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南画隆盛から異色の日本画家を生む土壌へ
2024/12/29
疋田芳沼 左:矮鶏図、右:山間旅人図 隆盛を極めた東三河の南画だが、明治中期をひとつのピークに、やがて衰退していく。閉塞した郷土画壇を去り、京都や東京の画壇に活路を見出そうとする次代の画家たちも出てき ...