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江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま東北地方を探索中。

画人伝・山形 風俗図・日常風景

庄内地方に鳥羽絵風の戯画を数多く残した土屋鴎涯

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土屋鴎涯「楽しい庄内方言まんが-鳥羽画 磯釣之部 五-」より。磯釣りの様子をコミカルに描き、場面ごとに庄内弁で文章が添えてある。上図は「釣り場で」の章から「俺までひっぱるな」
図中庄内弁の意味:なんということだ 離せ 離せ。そんなに 引っ張ると 俺まで 落ちるってば。いやな 人だ。自分が 落ちるといって 俺に つかまって 俺まで 落とす ところかい。申し訳ないけど 離して くれって。お前のような ものと 心中 して 居られないよ。

「頭にささった魚」
図中庄内弁の意味:アット トット 痛い 痛い。ヤア ウマズラハギに 頭に 刺さりこまれた。どうにか 取って くださいな。動き回って 騒ぐもんだ から 痛くて 中々 抜けない もんだよ。

鳥羽絵(とばえ)とは、江戸時代に戯画や漫画を指して使われていた言葉で、国宝「鳥獣人物戯画」の筆者と伝えられてきた鳥羽僧正覚猷が、この呼び名の由来とされている。また、ごく限られた意味として、18世紀前半の大坂を中心に流行した軽妙は筆致の戯画を指して使われることもある。

山形県庄内地方には、「土屋はんの鳥羽絵」と呼ばれ親しまれてきた数多くの鳥羽絵風の戯画が残されている。作者の土屋鴎涯は、戯画を得意とし、大正から昭和初期にかけて多くの鳥羽絵風の戯画を描いている。当時の生活の様子がわかるものや、磯釣りをテーマにしたものも多い。

鴎涯がどのようにして絵を学んだかは明らかになっていないが、特定の師はおらず、絵の折手本などで修練を積んだようである。その職歴は裁判所や銀行、農地整理組合など多様で、勤めのかたわら絵を描き、決して代金をもらうことなく、人から請われれば描いて与えていたという。没後、昭和49年に酒田市の本間美術館から「鴎涯戯画」が出版された。

土屋鴎涯(1867-1938)つちや・おうがい
慶応3年鶴岡生まれ。庄内藩士・土屋伊教の長男。幼名は正太郎、のちに親秀。明治14年鶴岡苗秀学校を卒業して広野小学校の授業生となった。明治22年より大正2年まで、鶴岡、新庄、酒田の裁判所に勤務。その後、酒田本立銀行、ついで飽海郡耕地整理組合に勤め、昭和2年から8年まで酒田の信成合資会社に勤務した。幼いころから絵が得意で、勤めのかたわら文人と交わって画技を身に付けたと思われる。大正14年に摂政宮が庄内を訪れた際には、絵画19点を台覧に供した。特に鳥羽絵風の戯画を得意とした。昭和13年、72歳で死去した。

山形(15)-ネット検索で出てこない画家

文献:江戸の戯画、楽しい庄内方言まんが-鳥羽画 磯釣之部 五-







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