画人伝・福岡

雲谷派が祖となった筑後久留米藩御用絵師・三谷家

更新日:

安芸国広島に生まれた雲谷派の三谷等哲(不明-1630)は、主家の断絶とともに浪人となり、子の等悦とともに筑後の久留米に移住した。久留米藩二代藩主・有馬忠頼は、等哲・等悦父子の人格技量を認め、等哲没後に等悦を藩の御用絵師として召し抱えた。等悦には安俊(1634-1671)、安常(1634-1671)と二人の子がおり、ともに中橋狩野家の狩野永真安信に師事し雲谷派から狩野派に転じた。以後三谷家は狩野派を学んでいる。兄の安俊が家督を継ぎ、弟の安常は江戸で第一分家を興し初代となった。さらに安常の長男・永恕(不明-1761)は第二分家を興し、三谷家は三家に分裂した。
→参考:近世前期の広島画壇で主流として活躍した雲谷派

三谷等哲(不明-1630)
安芸国広島生まれ。広島藩主・福島正則の家臣・三谷七郎左衛門隆経の子。師は定かではないが雲谷派を学んだとされる。雲谷等顔の孫・雲谷等哲とは没年の相違から別人と考えられている。父と同様に福島家に仕え、同家の断絶とともに浪人となり、長男の等悦を連れて広島から久留米に移住した。有馬家に仕え絵師となったが、分限帳などの上で御用絵師として確認できるようになるのは子の等悦の代からである。寛永7年死去した。

三谷等悦(不明-1675)
安芸国広島生まれ。三谷本家初代。三谷等哲の長男。名は信重、通称は徳左衛門。別号に雲沢がある。15歳の時に父とともに久留米に移住し、父の没後、久留米藩の2代藩主・有馬忠頼に抱えられ御用絵師になった。子に安俊、安常がいる。延宝3年死去した。

三谷安俊(1634-1671)
寛永11年生まれ。三谷本家二代。三谷等悦の長男。名は安行、あるいは安歳。主命により15歳の時に中橋狩野家の狩野永真安信に師事し、祖父の雲谷派から狩野派に転じた。安俊以降、三谷家は狩野派となった。寛文11年、38歳で死去した。

三谷安常(不明-1724)
三谷第一分家初代。三谷等悦の二男。名は仁右衛門、芳次郎などと称した。法名は永玄。兄の安俊とともに中橋狩野家の狩野永真安信に師事した。子に江戸で分家を興した永恕、家督を継いだ元就らがいる。娘は安常の兄・安俊の養子・永伯のもとに嫁いだ。享保9年死去した。

三谷永伯邑信(1663-1739)
寛文3年生まれ。三谷本家三代。筑後泉屋松島氏の子で、三谷安俊の養子となった。名は徳之助、または與助。安清、安明と称した。養父と同じく中橋狩野家の狩野永真安信に師事し、安信没後は孫の永叔の門人となった。晩年に久留米に帰った。元文4年、77歳で死去した。

三谷永雪白信(不明-1756)
三谷本家四代。三谷永伯邑信の長男。江戸に出て中橋狩野家の狩野永叔に師事し、永叔没後は同家の祐清法眼の門人となった。仙哲、永錫の2男に、娘1人がいたと伝わっている。宝暦6年死去した。

三谷永錫映信(1752-1822)
宝暦2年生まれ。三谷本家五代。三谷永雪白信の二男。兄の仙哲が早世したため5歳で家督を相続した。34歳で江戸に出て中橋狩野家の狩野法眼永徳(二代)に入門し、40歳で法橋に叙され、2年後には法眼の位に進んだ。子に勝浦と辰次郎の2男と1女がいる。15歳頃までは徳之助で以後は主常、高芳、狩野姓を得てからは映信と称した。文政5年、71歳で死去した。

三谷勝浦友信(不明-1845)
三谷本家六代。三谷永錫映信の長男。木挽町狩野の狩野伊川院栄信に入門、師没後は晴川院に学んだ。弘化2年死去した。

三谷三雄義信(1834-1880)
天保5年生まれ。三谷勝浦友信の三男。中橋狩野家の狩野永悳立信に入門したと伝わる。妻は川辺御楯の妹。虎次郎、繁記、主道などと名乗り、中年から狩野左京之進、楽山亭永錫などと号した。当時の世評は高く、「生き絵書きの三雄」などと称されたという。明治13年、47歳で死去した。

三谷友林主郷(1819-1864)
文政2年生まれ。三谷本家七代。三谷勝浦友信の弟子だった池田氏の子で、勝浦の養子となって家督を継いだ。勝浦の長男である勝竹は江戸に分家し、二男泰蔵は早世、三男三雄はまだ幼かったため、友林が養子となって三谷家に迎えられた。修業のことは明らかではないが、狩野の絵を手本に学んだらしい。文久4年、46歳で死去した。

三谷真澄澹園(1851-1928)
嘉永4年生まれ。三谷本家八代。三谷友林主郷の長男。別号に澹園、山谷がある。13歳の時から5年間は分家の勝波とその子・友信に学んだ。のちに三雄にも学んでいる。中年以降は西洋画を学び、久留米高等小学の図画教師をつとめた。昭和3年、78歳で死去した。

三谷永恕淵信(不明-1761)
三谷第二分家初代。三谷安常の長男。名は永湖、または茂信。別号に含章斉がある。狩野永叔に学び、狩野姓および「永」と「信」の字を許された。享保7年に江戸居住を命じられ、江戸に第二分家をたてた。宝暦11年死去した。

三谷元就柳眼(1687-1748)
貞享4年生まれ。三谷第一分家二代。三谷安常の二男。別号に柳眼、桃花斉がある。兄の永恕が江戸に分家したため家督を継いだ。正徳年中に永伯、永恕らとともに久留米城内の障壁を描いた。寛延元年、62歳で死去した。

三谷宗恕主邑(1702-1769)
元禄15年生まれ。三谷第一分家三代。元就の子が幼くして亡くなったため養子となって家督を継いだ。明和6年、68歳で死去した。

三谷仙八主景(不明-1812)
三谷第一分家四代。名は仙柳。別号に一楊亭、仙立がある。宗恕に男子がいなかったため娘を妻とし家督を継いだ。文化9年死去した。

三谷永就資信(不明-1825)
宝暦10年生まれ。三谷第一分家五代。三谷仙八主景の子。狩野法眼永徳(二代)に師事した。寛政9年に法橋に叙され、62歳の時に法眼の位に叙せられた。天明6年には尚古斎と号した。文政8年、66歳で死去した。

三谷勝波方信(1805-1869)
文化2年生まれ。三谷第一分家六代。父は大島氏で、三谷永就資信の養子となった。理由は明らかではないが、本家二代の安俊以来代々師事し続けていた中橋狩野家を離れ、木挽町狩野家の伊川院栄信のもとに入門した。嘉永4年に法橋に叙され、のちには法眼の位にも叙された。明治2年、65歳で死去した。

三谷勝沢有信(1842-1928)
天保11年生まれ。三谷勝波方信の長男。幼名は虎三郎。のちに狩野勝沢と称した。安政6年、17歳で木挽町狩野家の狩野勝川院に入門し、20歳の時に狩野姓を許され狩野勝沢と称した。狩野芳崖、橋本雅邦は同門。明治に入ると長崎や東京で西洋画法を研究、県会議員、初代久留米市会議長をつとめる一方、内国絵画共進会、東洋絵画共進会などに出品した。明治40年には政界を引退して画業に専念した。大正14年、東京において84歳で死去した。

文献:御用絵師 狩野探幽と近世のアカデミズム福岡県日本画 古今画人名鑑、日本画 その伝統と近代の息吹き

日本の美術 no.323 雲谷等顔とその一派
至文堂







-画人伝・福岡

Copyright© UAG美術家研究所 , 2019 All Rights Reserved Powered by STINGER.