画人伝・岐阜 南蘋派 花鳥画 中国故事

美濃の南蘋派

左:山田鶴洲「木蓮に白閑鳥図」、右:日比野鶴翁「仏手柑に綬帯鳥図」

中国の画家・沈南蘋によって長崎にもたらされた写実的な画法は、当時の画家たちに新鮮な驚きをもって迎えられ、弟子の熊代熊斐(1712-1772)を経て、江戸、大坂、京都などの画家に伝えられ、のちに南蘋派と総称されるような拡がりをみせた。

美濃地方における南蘋派の伝播は、長崎で修業し熊斐に学んだ黄檗僧・鶴亭(1722-1786)のもとに岐阜町の山田治右衛門(1745-1803)が入門したことに始まる。山田治右衛門は酒造業三田屋に生まれ、幼い頃から画に親しみ、鶴亭に入門することを望んだが、はじめ親が許さなかったため、成長してから入門を果たしたという。鶴亭のもとで研鑚に励み、「鶴洲」の号を許され、師の名乗りのひとつである「善農」を譲り受けて帰郷した。

山田鶴洲が南蘋派の画風を持ち帰った18世紀末期は、漢詩、和歌、狂歌、俳諧、華道、歌舞音曲などを学ぶものが増え、美濃は文化爛熟の時代を迎えていた。漢詩の世界では、岐阜町の山田鼎石(1720-1800)が鳳鳴社を興し、その下に左合龍山(1754-1779)、宮田嘯台(1747-1834)や、鶴洲の弟である山田元長(芝岡)らが集まり、活発な活動を展開していた。このような環境の中、中国から来た新しいスタイルの絵画を携えて戻ってきた鶴洲は大歓迎され、教えを乞う者が殺到したという。

鶴洲の弟子の中で高弟とされる、養老の日比野鶴翁、鷺山の矢島鶴仙、加納の松波鶴山など「鶴」の字を継承する画家たちは、鶴亭、鶴洲の南蘋画法を広め、幕末の南画隆盛の頃を迎えるまで長く続いたが、やがて衰退していく。

山田鶴洲(1745-1803)やまだ・かくしゅう
名は登穀、通称は治右衛門、画人として張氏を名乗る。岐阜上大久和町の酒造業者の家に生まれる。大坂で鶴亭より南蘋派の技法を学び、「善農」の名を継承した。岐阜に戻った後は絵を求める人も多く、また多くの弟子に技法を伝えた。

日比野鶴翁(1764-1847)ひびの・かくおう
明和1年生まれ。名は清蔵、景亮、字は公明。はじめ亀洲と号した。伊勢国の郷士の家に生まれ、23歳で養老郡高田の日比野家の養子になった。日比野泰の高祖父。山田鶴洲の弟子の中でも最も技量が高く、鶴亭以来の南蘋派の画法を継承した。弘化4年死去。

矢島鶴仙(1755-1826)やじま・かくせん
宝暦5年生まれ。本名は矢島一円。別号に鷺山道人がある。方県郡鷺山村の法光寺第九世住職。山田鶴洲に最初に師事した弟子の一人。文政9年死去。

松波鶴山(1769-1855)まつなみ・かくさん
明和6年生まれ。名は文右衛門。別号に邦章、慶翁がある。加納宿の本陣松波家に生まれ、分家を継いで後に庄屋役を務めた。風流を好み、茶道、謡曲、鼓のほか製陶、篆刻も行うなど多芸多才だったが、なかでも画を好み山田鶴洲に師事した。安政2年死去。

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文献:南蘋派・南画派




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