画人伝・岡山 日本洋画の先覚者 洋画家 人物画

岡山の近代洋画、松岡寿と原田直次郎

松岡寿「ピエトロミカの服装の男」

幕末から明治初期にかけて洋画塾が多く開設され、岡山出身の洋画家としては、川上冬崖の聴香読画館で学んだ松岡寿(1862-1944)、高橋由一の天絵学舎で学んだ原田直次郎(1863-1899)、五姓田芳柳の五姓田塾で学んだ松原三五郎(1864-1946)と平木政次(1859-1943)、五姓田義松に学び芳柳の娘と結婚した渡辺文三郎(1853-1936)らがいる。また、ヨーロッパに留学する洋画家も増え、松岡寿(1862-1944)はローマ美術学校に学び、原田直次郎(1863-1899)はミュンヘン美術学校でガブリエル・マックスに師事した。二人は明治20年頃に相次いで帰国したが、この頃の日本は、フェノロサや岡倉天心らによる日本画復興を唱える国粋主義運動が勃興しており、内国絵画共進会では洋画の出品が拒否され、明治20年に設立された東京美術学校には洋画科が除外された。洋画家の不満は募り、明治22年、松岡寿、原田直次郎は、浅井忠、小山正太郎、山本芳翠らとともに日本最初の洋画団体「明治美術会」を結成し、その中心となって活動した。

松岡寿(1862-1944)
文久2年岡山藩山屋敷生まれ。父の松岡隣は岡山藩の洋学研究の先駆者。明治5年父とともに上京し、翌年川上冬崖の聴香読画館に入学して西洋画技法を学び、さらに、明治9年工部美術学校に入学し、イタリアから招聘されたアントニオ・フォンタネージに学んだ。フォンタネージの帰国後は、小山正太郎、浅井忠らとともに退学し、研究組織「十一字会」を結成した。明治13年にローマに留学、明治16年には国立ローマ美術学校に入学して、人物画専門科で本格的な研究を積んだ。明治21年に帰国し、翌年日本最初の洋画団体「明治美術会」を浅井忠、小山正太郎、山本芳翠、原田直次郎らと結成した。明治34年に明治美術会が解散した後は、黒田清輝、岩村透らと国民美術協会を結成し、民間からの美術運動を推進、文展の開設にも尽力した。明治40年から文展の審査員をつとめ、農務省商品陳列館長、特許局審査官、東京美術学校教授、東京高等工芸学校の初代校長などを歴任した。昭和19年、83歳で死去した。

参考:UAG美人画研究室(原田直次郎)

原田直次郎(1863-1899)
文久3年江戸小石川柳町生まれ。父の原田一道は鴨方藩士。明治3年、大阪開成学校で仏語を学び、保田東潜に漢学を習った。3年後に東京に戻り、東京外国語学校フランス語科で学んだ。また、12歳の頃から山岡成章について洋画を学び、明治16年に天絵学舎で高橋由一の指導を受けた。翌年兄・豊吉の勧めでドイツに渡り、ミュンヘン美術学校に入学、ドイツ画派の伝統を守る歴史画の大家ガブリエル・マックスに師事した。ミュンヘン滞在中に森鴎外と交友し、生涯の友となった。明治20年に帰国、明治美術会の結成に参加、また、画塾鐘美館を開き三宅克己、大下藤次郎、和田英作らと指導したが、明治32年、36歳で死去した。

渡辺文三郎(1853-1936)
嘉永6年備中矢掛町生まれ。幼いころから画を好み、四条派の岡本豊彦の門人・種彦に学び、興譲館で漢籍を修めた。明治6年上京し、五姓田義松に洋画を学んだ。明治13年に義松が欧州に留学したため、五姓田塾を預かり門下の指導にあたった。明治22年に明治美術会の結成に参加、明治35年には太平洋画会の創立に参加、以後同展に出品した。初代五姓田芳柳の長女で義松の妹幽香と結婚し、おしどり画家といわれた。晩年は薇山の号で洋画の技法を加味した日本画も描いた。昭和11年、84歳で死去した。

平木政次(1859-1943)
安政6年江戸生まれ。備中松山藩士・平木政徳の長男。一時備中松山に帰るが、明治6年両親とともに横浜の祖父の家に移り、当時横浜にいた五姓田芳柳の内弟子となった。明治10年、芳柳が大阪の陸軍病院勤務となったため、後を追って大阪に行き、京都の田村宗立、神戸の前田吉彦らと交友した。その後、東京に戻り、明治11年、玄々堂印刷会社に入社し、石版色刷の原画を描く画工となった。明治13年から文部省教育博物館に勤務、博物館の標本画を描き、明治23年からは東京帝国大学理科大学の嘱託員として製図室を担当、東京高等師範学校にも嘱託員として勤務。晩年には『明治初期洋画壇回顧』を出版した。昭和18年、85歳で死去した。

松原三五郎(1864-1946)
元治元年岡山生まれ。備中岡山藩の御典医の子。画家を志し中学を中退して上京、五姓田芳柳に師事した。明治17年岡山に戻り、岡山県師範学校と岡山中学の図画教師をつとめながら、画塾天彩舎を開き洋画の指導にあたり、満谷国四郎、鹿子木孟郎、徳永仁臣らを育てた。明治23年、大阪府の要請を受け、大阪師範学校に転任、以後大阪府立中学校、大阪陸軍地方幼年学校にも勤務した。大阪転任と同時に塾も大阪に移し、これが大阪における最初の洋画塾といわれている。明治37年、教職を去った後は、塾を天彩画塾と改称し、大正14年に閉めるまで多くの門人を育てた。明治29年には有志とともに大阪に関西最初の洋画団体「関西美術会」を結成、明治34年には同会を京都に移すなど、関西画壇の重鎮として活躍した。昭和21年 83歳で死去した。

岡山(27)画人伝・INDEX

文献:岡山の美術 近代絵画の系譜岡山の絵画500年-雪舟から国吉まで-




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