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鹿児島の画家で初めて正式に洋画を学んだ曽山幸彦

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武者試鵠図 曽山幸彦 東京国立博物館蔵

鹿児島の画家で最も早く油彩画を描いた床次正精は、本格的な画法の修得のためイタリア留学を希望していたがついに叶わず、独学で洋画技法を学ぶにとどまった。ついで登場した曽山幸彦(1859-1892)は、工部美術学校でイタリア人画家から本場の洋画技法を学んでおり、鹿児島の画家で初めて正式に洋画を学んだ画家となった。

鹿児島に生まれた曽山は、小学校を卒業後、伯父で歌人の高崎正風をたよって兄とともに上京、兄弟で海軍に入るべく教育を受けていたが、伯父の正風は幸彦の絵画好きと天性の画才を見抜き、明治9年にイタリア人画家フォンタネージを迎えて開設した工部美術学校に入学させた。同じ頃に同校で学んだ学生に、小山正太郎、松岡寿、浅井忠、山本芳翠らがいる。

曽山は同校でカペレッティに水彩画を習い、ついでフォンタネージ帰国後に来日したサン・ジョヴァンニに師事した。しかし、この頃から岡倉天心やフェノロサが標榜した国粋主義による西洋画排除の運動が高まり、ついに明治16年工部美術学校は廃校、ジョヴァンニも帰国し、日本の洋画界は、黒田清輝の帰国を迎えるまで不本意な時代を過ごすこととなる。

曽山は工部美術学校閉校後も、工部大学校図書館につとめながら「画学専門美術学校」を開設し、洋画教育に情熱をそそいだ。しかし、この学校も経営難のためわずか1年で廃校、その後は工部大学校の後進である工科大学で助教授をするかたわら、自宅で私塾を開き、後進の育成を続け、藤島武二、和田英作、岡田三郎助ら、のちに美術界で活躍する多くの人材を輩出した。曽山は教育に情熱を燃やし、周囲からも大いに期待されていたが、チフスのため33歳で早世してしまう。黒田清輝が留学先のフランスから帰国する1年前のことだった。

曽山幸彦(1859-1892)
安政6年鹿児島県岩崎生まれ。薩摩藩士・曽山芳徳の二男。小学校を卒業後、伯父で歌人の高崎正風をたよって上京。明治11年工部美術学校に入学してイタリア人教師サン・ジョヴァンニの指導を受け、明治13年には画学助手、明治16年に修業証を取得、同年から工部省御用掛を拝命した。明治17年に私立の画学専門美術学校を堀江正章らと興して洋画の普及につとめたが洋画不遇の時代と重なり1年ほどで廃校。その後、自宅に私塾を開き、後進の指導にあたった。曽山の指導は鉛筆やコンテで石版画や石膏像を模写させる厳格なものだった。明治22年、明治美術会の結成に参加。翌年、第3回内国勧業博覧会に「武者試鵠図」を出品し褒状を受賞。同年親戚である大野家の養子となり、大野姓を名乗り死の直前に名前を義康に改名した。明治25年、33歳で死去した。

文献:鹿児島の美術、黎明館収蔵品選集Ⅰ、都城 美の足跡、かごしま文化の表情-絵画編

季刊みづゑ 1977年12月 NO873 ●ブリューゲル ●フォンタネージ
美術出版社







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