画人伝・石川 洋画家 肖像画・自画像

伊藤博文の両親の肖像画を描いて名声を博した早田楽斎

早田楽斎「大田美濃里肖像」金沢大学医学部記念館蔵

早田楽斎「大田美濃里肖像」金沢大学医学部記念館蔵

早田楽斎(1872-1946)は、加賀藩士の家に生まれ、幼いころから南画家の青山観水について画を学んだ。石川県専門学校に入学して得田耕と出会い、その才能を認められ洋画家になることを勧められ、上京して五姓田義松、小山正太郎松岡寿、渡辺文三郎ら当時の洋画指導者について研鑽を積んだ。

明治26年に帰郷したが、東京在住時代に、伊藤博文の両親の肖像画を描いて名声を博したことから、帰郷後も肖像画を中心に作品の依頼が相次いだという。当時石川県で活動していた初期洋画家たちが教職を兼ねていたのに対し、純粋に洋画家としてたったのは早田が石川県では最初の存在だったとされる。

その後渡米してカリフォルニア州のホプキンス美術学校に学び、シカゴ、ワシントン、ニューヨークなどで個展を開き、その後欧州各国を歴遊して帰国した。帰国後は東京で創作活動を続け、パノラマの制作や三越の背景画に携わるなど、多彩な活動をしたが、その作品の大半は東京大空襲によって焼失してしまった。

早田楽斎(1872-1946)はやた・らくさい
明治5年金沢市生まれ。本名は三四郎。幼少期に青山観水に南画を学んだ。明治19年石川県専門学校に入学し、得田耕に才能を認められ、得田について洋画を学んだ。明治23年上京して五姓田義松、小山正太郎、松岡寿らを訪ねて研鑽を積んだのち、明治34年渡米しカリフォルニア州のホプキンス美術学校に学び、その後フランス、イギリスなどを遊歴、各都市で個展を開催したほか、舞台の背景画を描き、大正2年帰国した。論客でもあり、『絵画論』を著し、日本画の団体である北陸絵画協会において洋画の優位を論じたりするなど積極的な活動をみせた。昭和21年、74歳で死去した。

石川(41)-画人伝・INDEX

文献:金沢市史資料編16(美術工芸)、石川の美術-明治・大正・昭和の歩み




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