画人伝・沖縄 浮世絵師 風景画

葛飾北斎が描いた「琉球八景」

葛飾北斎「琉球八景」のうち「中島蕉園」浦添市美術館蔵

15世紀初めに誕生した琉球王国は、中国との冊封関係の中で独自の文化を育んできたが、1609(慶長14)年にあった薩摩藩の琉球侵攻により幕藩体制に組み込まれることとなり、徳川将軍や琉球国王の代替わりのたびに、琉球の使者が薩摩藩に伴われて江戸へあいさつに行く「江戸上り」が義務づけられた。その回数は1634年から1850年までに18回を数えた。

江戸上りの際には、約100人の教養人で構成された琉球使節団が、1000人を超える薩摩藩の役人や護衛に伴われ、瀬戸内海、美濃路、東海道を行き、江戸城へ向かった。中国風の衣装を身にまとい、路地楽を演奏しながら進むその異国情緒あふれる行列は、大変な評判となり、ひと目見ようとする人々で大騒ぎになった。特に、きらびやかな衣装を身に着けた「楽童子」は注目の的だったという。江戸上りのたびにガイドブックのような冊子が出版され、行列の様子を描いた図や浮世絵も制作されるなど、江戸城下は異国趣味の「琉球ブーム」で盛り上がった。

そのブームの中で制作されたのが、葛飾北斎の「琉球八景」である。「琉球八景」は琉球の景勝地を描いた錦絵(多色摺りの木版画)全8枚で構成されており、1823年に制作された。これは、1832年の江戸上りにあわせたものと思われる。ただ、北斎は異国である琉球を訪れてはおらず、中国の冊封使・周煌が琉球の風俗や地誌などをまとめた『琉球国志略』の挿図「球陽八景」を元にして描き、彩色したと思われる。

「琉球八景」のうち「中島蕉園」(掲載作品)は、泉崎の仲島にあった中島蕉園を描いたもので、バナナと同種の植物・芭蕉が生い茂り、手前には仲島の大石と呼ばれる岩がある。手前右の舟一隻と遠景の富士山らしき山影は元図にはないもので、これは北斎らしい洒脱なアレンジが加えられたものと思われる。ほかにも8点のうち3点に富士山を思わせる山が描き込まれている。

葛飾北斎(1760-1849)
宝暦10年江戸生まれ。幼名は時太郎。19歳の時に当時役者絵の第一人者・勝川春章の門に入り、役者絵などを描いた。はじめ春朗と号し、約70年の長い画歴中、30以上の雅号を用いた。その後、狩野派、琳派、住吉派、洋風画などさまざまな画風を学び、風景画、花鳥画、摺物、絵本など多彩な仕事を手掛け、生涯に残した作品群は三万点を超えるといわれる。嘉永2年、90歳で死去した。

参考:UAG美人画研究室(葛飾北斎)

沖縄(8)-画人伝・INDEX

文献:北斎の描いた琉球 琉球八景、琉球・沖縄史




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