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幕末から明治前期にかけての土佐を代表する画人・河田小龍と門人

河田小龍 左:上杉謙信陣中詠詩之図、右:山中常盤図

河田小龍(1824-1898)は、様々な絵画様式や技法を会得して南北合流の画人と呼ばれた。知識人としても広く活躍し、アメリカから帰国したジョン万次郎の取り調べに立ち会い、万次郎の異国での体験を『漂巽紀畧』に著わした。また、坂本龍馬に航海通商策を教えたともいわれる。舶来物の絵の具をはじめ、遠近法や写実的な表現など絵画の面でも新しいものを土佐のもたらした。また多くの後進を育てており、小龍の画学塾・墨雲洞には150人近くの弟子がいたといわれる。主な門人としては、島村小湾、今井小藍、種田豊水、山本昇雲、南部錦溪、そして娘の河田小桃らがいる。また、のちに坂本龍馬の海援隊で活躍する新宮馬之助、長岡謙吉、近藤長次郎らも黒雲洞で画や漢学などを学んでいる。小龍は武市瑞山(半平太)、中岡慎太郎、岩崎弥太郎らとも交流があった。

河田小龍(1824-1898)
文政7年高知蓮池町生まれ。祖父の河田家を継いだ。名は小龍、通称は篤太郎。別号に小梁、松梁、維鶴などがある。幼いころに島本蘭溪に南画の手ほどきを受け、一時弘瀬洞意にも師事した。弘化3年、吉田東洋に従い京坂に遊学、書を篠崎小竹に、南画を中林竹洞、北画を狩野永岳に学び、南北合流の画人と呼ばれた。画学塾・墨雲洞で多くの弟子を育てた。明治31年、75歳で死去した。

島村小湾(1829-1882)
文政12年生まれ。幡多郡下田の人。本名は右馬之助。家は代々染工。明治5年頃から県庁に製図係として勤務した。画を河田小龍に学び、山水画、花鳥画を得意とした。中島敬朝の曽祖父にあたる。明治15年、54歳で死去した。

今井小藍(1859-1922)
安政6年生まれ。長岡郡後免町裏町の人。今井如藍の子。通称は梅太郎。梅梁と号したのちに小藍と改号した。幼いころから紺屋の父・今井如藍に南画の手ほどきを受け、明治4年に河田小龍の門に入り、小龍の次女・小桃とともに絵を学んだ。小龍の高弟として知られ、よく似た画法といわれる。門人に吉永梅里、小川窓月、若尾瀾水らがいる。大正11年、64歳で死去した。

左:山本昇雲「春園美人」高知県立美術館蔵、右:南部錦溪「花虫図」高知県立美術館蔵

山本昇雲(1870-1965)
明治3年南国市生まれ。本名は茂三郎。別号に小斎、松谷がある。はじめ柳本洞素について学び、ついで河田小龍に師事した。明治19年、大阪に出て陶器の絵付けの仕事についたが、明治21年に東京に出て滝和亭に師事した。雑誌「風俗画報」や「新撰東京名所図会」の挿絵などを手掛け、報道画家として活躍した。土陽美術会の創立会員。昭和40年、96歳で死去した。

参考:UAG美人画研究室(山本昇雲)

南部錦溪(1860-1920)
万延元年高知市本丁筋越戸生まれ。名は駿、一名馬、字は博益、一字千里。父は紙凧を作る職人。幼いころ、近隣の先輩だった横山又吉らに感銘をうけ、早くから徳弘董斎に南画を学び、董斎没後は河田小龍の門に入って人物画、花鳥画を学んだ。南北合流の画人といわれ、明治19年の東洋絵画共進会に花鳥画、人物画を出品。土陽美術会高知支部の創立に参加し幹事となった。当時、高知で花鳥画の名手と称された。大正9年、61歳で死去した。

日比野逸亭(1839-不明)
天保10年生まれ。通称は政起。勤王家・平井善之丞の子で、日比野基次の跡を継いだ。画を河田小龍、徳弘董斎に学び雲石と号した。のちに名草逸峰に師事し、前習を一洗して逸亭と号し逸峰風の山水を描いた。

橋本小湖(1857-1891)
安政4年生まれ。吾川郡弘岡上の村の人。名は勇、字は子健、通称は勇吉。別号に荒倉山樵、積翠堂主人、印癖楼主人、米虫、無画などがある。家は代々染工だった。幼いころから画を志し、橋本小霞、徳弘董斎、河田小龍に師事した。また、鉄筆の手法を河田小龍、尾崎学古斎に学んだ。明治24年、35歳で死去した。

石川晨山(1857-1925)
安政4年生まれ。土佐郡朝倉村米田の人。通称は鹿太郎。別号に米田がある。石川亀次の子。本職は大工。画を好み河田小龍に学んだ。大正14年、69歳で死去した。

伊藤紫山(1859-1917)
安政6年生まれ。初号は紫仙。名は正英。高知市廿代町に住んでいた。伊藤正実の子。明治9年より河田小龍に学び、のちに自己流で一種の画態を描き出し、襖画の仕込物を建具屋に卸す仕事をしていた。大正6年、59歳で死去した。

樋口竹涯(1862-1885)
文久2年生まれ。名は彦馬。明治8年に河田小龍に師事し、同門では麒麟児の目ありと称されたが、明治18年、25歳で死去した。

河田小桃(1864-1919)
元治元年高知市生まれ。河田小龍の次女。本名は甲子。幼いころから父に詩経を習い、画法を学んだ。ついで滝和亭に師事し、特に四君子を得意とした。蟹の絵を得意とし「蟹娘」と称された。郷土では文人墨客と交流し、女性画家としてよく知られた。明治23年、兄・蘭太郎を頼って京都に移住、絵画共進会などに出品し、妹・玉兎とともに競い合った。代々扇子商を営む西山家に嫁いでからは白扇堂と称して家業のかたわら画業にもいそしんだ。大正8年、56歳で死去した。

高知(18)画人伝・INDEX

文献:土佐画人伝坂本龍馬の時代 幕末明治の土佐の絵師たち高知の美術 150年の100人展高知県立美術館収蔵品目録、海南先哲画人を語る




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