画人伝・岩手 日本画家 魚類図

月嶺・月村と続く盛岡藩四条派の流れを継いだ藤島静村

藤島静村と梅村の合作「双鯉図」(梅村は妹さきの雅号)

幕末に盛岡で生まれた藤島静村(1864-1935)は、明治はじめに北海道から帰郷していた川口月村に師事し、25歳の時には、内丸の協同商館(現在の盛岡市役所あたり)で個展を開いて反響を呼び、その才能は川口月嶺・月村と続く盛岡藩四条派を継ぐ画家とみられるようになった。

明治32年には、東京で画家として身を立てるべく一家で上京した。どのような師についたかは不明だが、浅草の各所を転居しながら、下町の庶民の暮らしのなかで制作し、日本美術協会などに出品している。

明治37年には、美術学校を卒業したばかりの葛江月や同門の藤沢翠村らとともに、岩手最初の美術団体である「彩友会」を結成した。この結成が以後の岩手画壇を大きく発展させるきっかけとなった。

その後は、家庭の経済的事情で明治38年に金沢に出向いたのを皮切りに、一箇所には定住せず、金沢、小松、羽咋、高岡など北陸路から京都、大阪、下関など各地に滞在してその地の画人や風流人らと交流し、全国的にその名を知られるようになっていった。

藤島静村(1864-1935)ふじしま・せいそん
文久3年盛岡生まれ。本名は啓八。藤島啓治の長男。父親は盛岡の穀町の南部藩御用達店の飴屋「高屋」から分家して饅頭屋を営んでいた。10歳の時に川口月村に師事したと伝わっている。月嶺・月村と続く盛岡の四条・円山派の画系を継承しつつも、独自の画風を模索した。明治32年一家で上京、浅草に住んだ。明治38年から41年にかけて断続的に金沢・北陸旅行をし、大正元年頃から5年頃まで大阪に長期滞在し、その間岩手に赴くなど、活発な地方巡歴をした。東京、大阪での静友画会や屏風会の開催で、知名度も高まった。大正後半から昭和初期にかけては、不明な点も多いが、盛岡、大阪、北陸地方を転々としているようである。昭和10年、71歳で死去した。

岩手(21)-画人伝・INDEX

文献:旅する日本画家 藤島静村、藩政時代岩手画人録、盛岡の先人たち、宝裕館コレクション、青森県史叢書・近現代の美術家、青森県南部書画人名典




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