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江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま北関東地方を探索中。



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日光東照宮造営に携わり徳川家康像を描いた狩野探幽

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狩野探幽「東照権現像(霊夢像)」

左:狩野探幽「東照権現像(霊夢像)」寛永20年12月28日 栃木・輪王寺蔵 重要文化財
右:狩野探幽「東照権現像(霊夢像)」寛永20年8月22日 栃木・輪王寺蔵 重要文化財

元和2年、徳川家康(1543-1616)は駿府(現在の静岡市)で死去し、駿河久能山に葬られた。翌年、二代将軍秀忠によって日光山内に東照社(のちに東照宮)が造営され、家康は神(東照権現)として祀られた。これにより、中世に勝道上人によって開山された日光山は、再び聖地としての輝きを取り戻すことになった。

さらに三代将軍家光は、寛永11年に社殿の総建替え(大造替)を命じ、元和年度の建物の大部分を廃し、莫大な費用と労力をかけて2年後に完成させ、その19年後の承応2年には家光の廟所大猷院が日光山内に造られた。「東照宮御造営帳」によれば、これらの絵画装飾を担当したのは狩野派の絵師たちで、彼らを統率していたのが、狩野派中興の祖と称される狩野探幽だった。

狩野探幽(1602-1674)は、狩野孝信の長男として京都に生まれ、父孝信が徳川家康に召されて江戸に下った際、11歳の時に徳川家康に謁見し、その2年後には秀忠にも謁見している。16歳で徳川幕府の御用絵師となり、江戸鍛冶橋門外に屋敷を拝領して奥絵師・鍛冶橋狩野家を興した。当時京都を本拠地にしていた狩野派の画法に加え、宋の牧谿、可翁、または雪舟の画法を研究し、沈滞気味だった狩野派の勢いを再び盛り上げる中心人物となった。

日光東照宮関連で探幽が描いたものとしては、本社拝殿や家光の廟所大猷院拝殿の壁画、大猷院本殿後堂に掲げられた「釈迦三尊像」、家康の生涯を追った近世絵巻「東照社縁起」などがある。また、家康に深い敬慕の念を抱いていた家光は、家康の夢を見るたびに、その姿を探幽に描かせたといわれ、「東照権現像」(掲載作品)が輪王寺と徳川宗家に伝わっている。これらは俗に「夢の画像」「霊夢像」と称されている。

狩野探幽(1602-1674)かのう・たんゆう
慶長7年京都生まれ。狩野光信の弟孝信の長男。名は守信、幼名は四郎次郎、または采女。寛永15年に出家して探幽、白蓮子と号した。3歳ころから絵筆を握り、父孝信に手ほどきを受けた。11歳の時には駿府に参上して家康に謁見した。17歳の時に父と死別し、弟の尚信、安信とともに、父の兄狩野光信の門人・狩野興以のもとに育った。その前年の元和3年、16歳の時に徳川幕府の御用絵師になり、父孝信が没した後も家督を弟尚信に譲り、江戸鍛冶橋門外に屋敷を拝領して奥絵師鍛冶橋狩野家を興した。二条城修築や江戸城、日光東照宮などの造営において、幕府御用絵師の最高責任者として一門の絵師を統率した。寛文2年61歳の時に、御水尾上皇の肖像を描き、当時の画家として最高の宮内卿法印に叙され「筆峯居士」の印を賜った。延宝2年、73歳で死去した。

栃木(3)-ネット検索で出てこない画家

文献:とちぎ美術探訪、栃木の美術、栃木県歴史人物事典









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