画人伝・群馬 版画家 風俗図・日常風景

24歳の時に行方不明となった幻の版画家・藤牧義夫

藤牧義夫「赤陽」東京国立近代美術館蔵

藤牧義夫「赤陽」東京国立近代美術館蔵

藤牧義夫(1911-1935)は、明治44年、群馬県邑楽郡館林町(現在の館林市城町)に生まれた。2歳の時に実母を亡くし、13歳の時には父親も病没した。さらに、16歳の時に兄も病没したため、藤牧は東京に嫁いでいた姉を頼って上京し、日本橋浜町の染織図案家・佐々木倉太の門に入った。

昭和3年、17歳の時に義兄の紹介で、銀座の植松図案工房にトレース工として就職。この頃、たまたま手にした平塚運一の「版画の技法」を読んで触発され、独学で版画制作を試み始めた。

昭和6年、20歳の時に第9回春陽会展に木版画を出品。同年創作版画倶楽部発行の版画誌「きつつき」第3号に応募した作品が優秀作に選ばれ掲載された。同年第1回日本版画協会展に出品。この頃、千住に住む絵馬師で版画家でもある吉田正三を知り、その紹介で柴秀夫たちと知り合ったと思われる。

昭和7年、21歳の時、小野忠重を中心として結成された「新版画集団」に参加、以後新版画展をはじめ、国展や日本版画協会展に隅田川やビルなど都会風景をテーマにした版画を発表し、翌8年には「給油所」によって第14回帝展に初入選を果たした。

昭和9年、23歳の時に墨絵「隅田川両岸画巻」の制作に取り掛かり、翌10年全4巻を完成させた。同年6月には神田の東京堂画廊で個展を開き、恩地孝四郎、前川千帆らの激賞を受け注目された。この個展の前後に植松図案工房を辞職し、生活も困窮していたことから次第にノイローゼ気味になっていったという。

昭和10年9月2日、向島の小野忠重を訪ね、自作と書籍類が入った大きな風呂敷包み2つを手渡し、小野と新版画集団の仲間たちに対する謝罪とお礼を繰り返し、「浅草子島町の姉のところに行く」と言い残して立ち去り、そのまま消息不明となった。

藤牧義夫(1911-1935?)ふじまき・よしお
明治44年邑楽郡館林町(現在の館林市城町)生まれ。大正14年館林尋常高等小学校高等科を卒業。同年亡父の思い出集として父の号をつけた『三岳全集』を作成、翌2年には『三岳画集』を完成させた。同年画の勉強と職を求めて上京、義兄の紹介で銀座の植松図案工房に勤務し、街頭風景のスケッチを続けた。18歳のころから木版画を始め、昭和7年「新版画集団」の創立に参加、同展に連続で出品した。翌8年には第14回帝展に初入選した。昭和9年墨絵「隅田川絵巻」の制作に取り掛かり、翌10年に4巻の制作を完了した。同年6月に神田東京堂画廊で個展を開催。早くに父や兄を亡くしたこともあり生活に窮乏し過労のためノイローゼ状態に陥り、昭和10年小野忠重を訪ね、版画作品を預けて立ち去り、そのまま消息を絶った。

群馬(37)-ネット検索で出てこない画家

文献:生誕100年 藤牧義夫、生誕85周年記念 藤牧義夫 その芸術と全貌、りょうもうの美術館名品展、郷土の芸術家たち(館林) 、上毛南画史、群馬県人名大事典









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