谷聴泉(1898-1939)は、富山県東砺波郡城端町(現在の南砺市)に生まれ、14歳の時に東京に出て石井林響に画を、中村不折に書を学んだ。書は、若いころから金沢の常福寺住職の北方心泉の書風に心酔して研鑽を重ねており、師の不折からは画よりも書の道に進むように薦められたという。
その後、京都の日本画家・疋田芳沼に見込まれてその娘・竹尾と結婚して京都に新居を構え、25歳の時に疋田の薦めで菊池契月に入門した。菊池塾では異才として注目され、帝展にも入選し、京都南座や宝塚劇場などの大緞帳の制作にも携わった。
また、篆刻家の園田湖城が主宰する同風印社に所属し、中国書画や篆刻の研究につとめた。幾度か中国に渡り、古書画や古印収集、名碑の採拓などの活動を精力的に続け、書家、篆刻家としても高く評価された。
郷里では、高岡の筏井竹の門、城端町の野村満花城を父兄と仰いで敬慕し、彼らとともに河東碧梧桐の新傾向俳句に参加するなど、学識豊かな文人として幅広く活躍していたが、脳溢血のため41歳で急逝した。
ほかに、明治から昭和にかけて活躍した富山の南画家としては、竹筆を用いた独自の竹筆画や漆絵などを描いた佐々木祖山(1862-1949)、煎茶道を確立し松風流煎茶家元となった島崎其邨(1852-1932)、色彩感あふれる飄逸な画風を確立した石黒連州(1907-1978)、禅の精神性を生かした独特の水墨画を描いた加納白鴎(1914-2010)らがいる。
谷聴泉(1898-1939)たに・ちょうせん
明治31年東砺波郡城端町(現在の南砺市)生まれ。名は恵太郎。別号に一墨亭、俳号は丹矢。大正元年に上京し、画を石井林響に、書を中村不折に学んだ。大正4年河東碧梧桐主宰の「海紅」が創刊され、筏井竹の門、野村満花城ととも「丹矢」の俳号で参加した。大正5年京都に居を構え、東京と京都を往来する生活をし、日本美術院習作展にも2回入選した。大正12年菊池契月に入門。大正13年園田湖城が結成した同風印社に社友として参加。昭和4年第10回帝展に初入選。翌年の第11回帝展にも入選。昭和10年菊池契月門を円満退会し、離島や山間などを行脚。昭和13年頃から篆刻、水墨画の制作に専心したが、昭和14年、41歳で死去した。
佐々木祖山(1862-1949)ささき・そざん
文久2年東砺波郡城端町(現在の南砺市)生まれ。名は盛昌。岡部琴泉に画を学び、のちに関口老雲、浅井柳塘、村田香谷に南画を学んだ。竹筆を用いた独自の竹筆画や、膠ではなく色漆を用いた漆絵などを描いた。書や漢詩文を学び、篆書・篆刻にも巧みだった。昭和24年、85歳で死去した。
島崎其邨(1852-1932)しまざき・きそん
嘉永5年下新川郡生地町(現在の黒部市)生まれ。富取芳斎、鷹田其石に南画を、小林卓斎に書を学んだ。その間、会津戦争に官軍方として従軍した。のちに北海道開拓のため北海道に渡った。漆芸や陶芸、竹工芸も巧みで、売茶翁に私淑し、田能村直入のあと京都の打橋雲泉とともに煎茶道を確立し、大正8年松風流煎茶家元となった。昭和7年、80歳で死去した。
石黒連州(1907-1978)いしぐろ・れんしゅう
明治40年東砺波郡城端町(現在の南砺市)生まれ。城端町真覚寺住職。幼少の頃より画を好み、大正14年東京美術学校に入学。卒業後は病のため帰郷し、仏典などの勉学に励んだ。昭和20年福光町に疎開してきた棟方志功との親交を通じて柳宗悦、河井寛次郎、浜田庄司ら民芸運動の作家たちと交友し、再び画業に専念した。富岡鉄斎に私淑し、色彩感あふれる飄逸な画風を確立した。昭和53年、71歳で死去した。
加納白鴎(1914-2010)かのう・はくおう
大正3年氷見市生まれ。16歳で書家の比田井天来に入門。19歳の時に父を失い、家業を継ぐかたわら、高岡の国泰寺に参禅。悦巌大喜の指導を受け、その紹介で鎌倉円覚寺に鈴木大拙を訪ね「白鴎」の号を授けられた。また、この頃から村嶋酉一と親しく交わり、禅と絵の師と仰いだ。戦後は禅の古典籍に深く親しむ一方で、信楽、美濃、唐津などの窯を訪れて作陶活動に入り、各地で個展を開催し、京都に居を移した。あわせて、禅の精神性を生かした独特の水墨画を描いた。平成22年、96歳で死去した。
富山(11)-画人伝・INDEX
文献:篆刻の鬼才谷聽泉、富山の文人画展、越中百年美術回顧、抄記 城端町史