画人伝・長野 洋画家 人物画

書でも人気を博した黎明期の洋画家・中村不折

中村不折「卞和璞を抱いて泣く」

中村不折「卞和璞を抱いて泣く」

中村不折(1866-1943)は、江戸京橋に生まれ、5歳の時に維新の混乱を避けて両親の故郷である信州高遠に移り住んだ。信州での生活は貧しく、小学校を中退して商家に奉公に出るなど各地を転々としたのち、19歳頃にまた高遠に戻った。その後は商人になることを断念して菓子職人として働き、そのかたわら、北原節堂に漢籍を、真壁雲卿に南画を、白鳥拙庵に書を学び、さらに西洋画を独習した。

明治20年、22歳の時に長野市で開催されていた長野師範学校の夏期講習で、河野次郎に洋画の初歩を学び、上京を勧められた。同年、飯田小学校に図画教師として赴任したが、翌年この職を辞して上京、画塾「不同舎」に入門し、小山正太郎に師事した。

明治23年、前年結成された日本初の洋画団体・明治美術会の第2回展に水彩画3点を出品。明治26年の第5回展には油彩画を出品し、若手画家として認められるようになっていった。この頃、郷里から上京してきた従兄弟の小坂芝田と同居生活をしている。

明治27年、29歳の時に浅井忠の紹介で正岡子規と知り合う。当時子規は、陸羯南が家庭向けに創刊した新聞「小日本」の編集主任をしており、挿絵を描く画家を探していた。不折の作品は「小日本」「日本」などの新聞に次々と掲載され、不折と子規は無二の親友となり、洋画と文学という分野の枠を超えて互いに影響し合う仲となった。

明治28年、不折と子規は相前後して中国に渡る。不折は、前年に勃発した日清戦争の従軍記者として、休戦状態の遼東半島や朝鮮各地を約4カ月かけて取材し、「日本」新聞に原稿を送った。さらに、この取材旅行中に「龍門二十品」の拓本など貴重な書道資料を入手、のちの書家、書道研究家としての第一歩を踏み出した。

昭和30年、島崎藤村の第一詩集「若菜集」の表紙と挿絵を担当、これが装幀家としての初仕事となった。翌年には、藤村の第二詩集「一葉舟」でも装幀と挿絵を担当した。その後、書籍や雑誌の装幀と挿絵は、新聞挿絵とならぶ不折の重要な仕事となり、やがて明治の文豪の作品を多く手がけるようになった。

一方、不折の出品していた明治美術会(旧派)と対立していた新派の黒田清輝らは、白馬会を設立、黒田は東京美術学校に新設された西洋画科の指導者にもなり、日本洋画壇の主流となっていった。

そうした潮流のなか、不折は、明治32年にパリ万国博覧会に油彩画「黄葉村」を出品、マンシオン・オノラーブル賞を受賞し、これを機に渡仏を決意、明治34年、36歳の時に、横浜を出港して念願のフランス留学に向かった。

パリでは、かつて黒田清輝も学んだラファエル・コランに師事し、木炭を使った人体素描を習い、翌年には、パリ最大の画塾「アカデミー・ジュリアン」に転入、中世の史実を題材にした歴史画を多く描いたジャン=ポール・ローランスに師事し、以後人物画の基礎を研究、歴史画をテーマにするようになる。

明治38年、日露の開戦による国際情勢の緊迫化などの事情により帰国、明治美術会解散後に白馬会に対抗して創立された太平洋画会の会員となり、その年の第4回展に滞欧作を発表して注目された。翌年太平洋画会研究所が新設されると教鞭をとり、のちに太平洋美術学校と改称した際には初代校長となった。また、明治40年に文展が創設されると、第1回展から審査員をつとめ、大正8年には帝国美術院の会員に推挙されるなど、洋画壇での順調な活躍が続いた。

一方、明治41年に「龍眠帖」を出版し、本格的な書家としての活動も始めている。これ以降、洋画制作と並行して書家としても活動し、「不折流」「六朝書」と呼ばれる独自の書法を確立、書道界だけでなく、森鴎外や河東碧梧桐ら多くの支持者を得て、幅広い人気を博し、「新宿中村屋」、清酒「真澄」「日本盛」などの印象的なロゴも手がけている。

日本画作品も多く制作しており、午前中にモデルを相手に洋画作品を制作し、午後は書や日本画作品を制作して過ごすことが多かったという。その潤筆料を書道関連の資料収集の資金にあて、70歳の時、40余年にわたって収集した文物を基に財団法人を設立、書道博物館を創設した。現在では台東区の管理となり、台東区立書道博物館となっている。

中村不折(1866-1943)なかむら・ふせつ
慶応2年江戸京橋生まれ。本名は錐太郎。別号に環山、孔国亭、永寿霊壺斎、甘露二宝斎などがある。明治3年両親の故郷・上伊那郡高遠町に移住。絵を真壁雲卿に、書は白鳥拙庵に学んだ。84年、高遠学校の授業生となり、翌年伊那町伊那部校の助教に転じ、半年後に飯田小学校に移った。伊那部校在学中に河野次郎に洋画を教わり、上京を勧められた。飯田小学校時代は菱田春草らを教えた。明治20年上京し小山正太郎らの十一字研究所に入った。一時は従兄弟の小坂芝田と同居した。明治23年明治美術会の第2回展に入選、同展春季展にも入選した。浅井忠に正岡子規を紹介され、「小日本」の挿絵を描き名を高めた。明治27年に3カ月間、日清戦争を取材。明治34年に渡仏。ラファエル・コランに、ついでローランスのアカデミー・ジュリアンに学び、明治38年に帰国した。太平洋画会の会員となり同研究所で教えた。第1回文展では審査員をつとめ、以後も文展・帝展に出品。大正8年帝国美術院会員に推挙された。一方で書道、水墨画の研究、制作もすすめ、中国の古書の収集品は根岸の書道博物館に保管されている。昭和18年、78歳で死去した。

長野(34)-画人伝・INDEX

文献:長野県美術全集 第2巻、郷土美術全集(上伊那)、上伊那の美術 十人集、信州の美術、郷土作家秀作展(信濃美術館)、中村不折-伊那谷から世界へ、長野県信濃美術館所蔵作品選 2002、松本市美術館所蔵品目録 2002、長野県美術大事典、美のふるさと 信州近代美術家たちの物語




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