画人伝・鳥取 狩野派 花鳥画 鶴図

鳥取藩御用絵師・沖一峨と沖家

左:沖一峨「旭日鶴亀図」、右:沖探容「牡丹に鳥図」

初代鳥取藩主・池田光仲は、寛文6年に木挽町狩野家の門人だった沖清信を江戸詰絵師として登用した。当時は江戸幕府の体制が整い、政情も落ち着き、各藩も幕府の職制にならって諸職を整備するようになっていた。沖家はその後、二代清友、三代探陸、四代探玉、五代探高、六代探容、七代一峨、八代九皐と鳥取藩御用絵師をつとめ、明治に至るまで続いた。このうち江戸詰だったこともあり、初代から五代までの作品は少なく、その活動もよく知られていない。文政5年に沖家を継いだ六代探容は狩野派の技法を踏まえながらも多様な作風を展開、さらにその養子の七代一峨は、多様な画派からの摂取を試み、粉本主義ゆえに低調となっていた狩野派に新風を送った。一峨は沖家の直系ではないが、累代の中では最も画名が高く、藩からも重用されていた。八代九皐は江戸末期に生まれ、藩絵師としての活動は短く、明治以降は官界に入って活躍した。

沖一峨(1797-1855)
寛政8年江戸深川生まれ。旧名は児玉淵泉。名は貞または貞蔵、字は子仰。はじめ渕泉、のちに探三、一峨と号した。別号に旭庵、静斎などがある。鍛冶橋狩野八代探淵の門人とされる。沖家と親戚関係にあることから、天保8年、42歳で沖家に入り、天保11年家督を相続して江戸詰御用絵師となった。沖家に入る前は、狂歌集の挿絵や千葉県銚子市の圓福寺や成田山新勝寺の絵馬などを制作しており、すでに江戸で一画家として活動していたことが知られる。画境は幅広く、狩野派の技法に加え、やまと絵、琳派、写生派、さらに浮世絵の研究まで手を広げ、これら各派の画法を取り入れた。鳥取藩御用絵師となってからは、精力的に活動し異例の出世を果たした。また、江戸の薬研堀の自宅で書画会を開くなど町絵師としての一面もあり、多面的な活動をした。安政2年、60歳で死去した。

沖探容(不明-1839)
名は守素。鳥取藩江戸詰の御用絵師・沖家六代探高の子。文政5年に家督を相続した。天保6年に探容から探冲に改名した。別号に太良山人がある。父の探高と、鍛冶橋狩野七代の探信守道に師事した。天保10年死去した。

沖九皐(1841-1912)
天保12年江戸生まれ。沖一峨の長男。幼名は鶴、貞一郎、のちに探三、さらに守固と改めた。父に画を学び、漢文を萩原鳳二郎に、萩原没後は大橋順蔵に学んだ。文久元年沖家八代目を継ぎ江戸詰御用絵師となったが、幕末の混乱期に生まれたことから画事に専念する機会に恵まれなかった。明治に入ってからは、神奈川、長崎、滋賀、和歌山、大阪、愛知の知事を歴任、貴族院勅選議員になるなど官界で活躍した。大正元年、72歳で死去した。

鳥取(1)-画人伝・INDEX

文献:藩政時代の絵師たち、藩絵師沖家にみる近世の狩野派




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