画人伝・新潟 南画・文人画家 山水・真景

長谷川嵐渓とともに幕末の越後画壇の双璧と称され多くの門人を育成した富取芳斎

富取芳斎「八木鼻之雪景」

富取芳斎「八木鼻之雪景」

富取芳斎(1808-1880)は、地蔵堂(現在の燕市)で酒造業や米穀問屋を営んでいた豪商の家に生まれ、9歳で五十嵐華亭に師事し、19歳の時に華亭の勧めで京都に出て中林竹洞について学んだ。

その後、江戸に出て谷文晁春木南湖らと交流し、元明清の名品に接して研鑽を積み独自の画境を切り拓いて帰郷。長谷川嵐渓と並んで幕末の越後画壇の双璧と称された。門下からは、長男の清旭、四男の芳谷をはじめ、多くの画人が出ている。

富取芳斎(1808-1880)とみとり・ほうさい
文化5年西蒲原郡地蔵堂町(現在の燕市)生まれ。富取正為の長男。名は良通、字は良輔。三条町の五十嵐華亭に10年間学び、その後京都に上り中林竹洞に師事した。その後江戸に出て、春木南湖、谷文晁らと交わり、元明清の名品に接して研鑽を積み帰郷した。明治13年、73歳で死去した。

富取清旭(1836?-1913)とみとり・せいきょく
天保7年頃西蒲原郡地蔵堂町(現在の燕市)生まれ。富取芳斎の長男。通称は東市、字は士明。幼いころから画を描いていたと伝わっているが、父の言葉もあって家を継いでから20年間絵筆を絶っていたが、43歳頃に隠居してからは再び画に親しんだ。大正2年、78歳で死去した。

富取芳谷(1857?-1925)とみとり・ほうこく
安政4年頃西蒲原郡地蔵堂町(現在の燕市)生まれ。富取芳斎の四男。通称は松一、字は間。幼いころから画に親しんだが、明治12年の兄・清旭の隠居後は富取家を継いで画から離れた。大正14年、69歳で死去した。

渡辺洽斎(1758-1828)わたなべ・こうさい
宝暦8年西蒲原郡真木山村(現在の燕市)生まれ。庄屋・原田仁左衛門の二男。名は寅作、通称は長左衛門。富取芳斎に師事したと伝わっているが、芳斎は50歳年下になるので、師事したとしても最晩年のことだと考えられている。花鳥画を好んで描いていたとされるが、途中で仏壇師に転向したという。麓村(弥彦村)の庄屋・渡辺家に入婿して跡を継いだ。文政11年、71歳で死去した。

佐藤三禅(1814-1881)さとう・さんぜん
文化11年頚城郡室野村(現在の十日町市)生まれ。四代目佐藤勘兵衛の長男。名は周治。別号に大眠、秀、三禅居士がある。三男に家督を譲り、江戸に出て漢学者・寺門静軒について学問を修め、画を富取芳斎に学んだ。のちに諸国を巡って研鑽を積み、詩文にも親しんだ。明治14年、68歳で死去した。

小川南涯(1828-1888)おがわ・なんかい
文政11年蒲原郡見附町(現在の見附市)生まれ。家業は酒造業。名は嶺太郎。はじめ渋谷三貫に画の手ほどきを受け、のちに富取芳斎に師事し、芳斎に従って江戸に出て研鑽を積んだ。上野寛永寺の一品親王に作品を献じたことから法橋の位を授けられ、苗字帯刀を許された。帰郷してからは三貫野に住んだという。明治21年、61歳で死去した。

渡辺芝谷(1828-1900)わたなべ・しこく
文政11年刈羽郡上岩田村(現在の長岡市)生まれ。幼いときに広大寺の徒弟となり僧籍に入り、龍泉院や西岩寺の住職をつとめ、のちに塩沢村雲洞庵の執事もつとめた。法名は厚菴大淳。画を富取芳斎に学び、田能村直入とも交友したという。明治14年には清国に渡って上海近辺の南画家にも学んだ。帰国後は十日町正念寺の前寺最勝寺に住み、碧落山房と名づけた画室で制作にあたった。明治33年、73歳で死去した。

高橋耕雲(1830-1892)たかはし・こううん
天保元年蒲原郡水原町(現在の阿賀野市)生まれ。名は長太郎。富取芳斎に師事し、花鳥、山水画を得意とした。明治10年からは蒲原郡天王(豊浦町)に移り、絵画共進会に出品した。日本美術院を舞台にした岡倉天心の新日本画運動にも参加した。明治25年、63歳で死去した。

吉田譲庵(1839-1874)よしだ・じょうあん
天保10年蒲原郡杉名村(現在の燕市)生まれ。幼いころに蒲原郡中条新田の吉田家の養子となった。旧姓は小林。川根川一庵に漢学を学び、のちに京都に上って蘭方医学を修めた。帰郷してからは医師として地蔵堂に住み、医業のかたわら画を富取芳斎に学んだ。また、恭の号で書も嗜んだ。長谷川嵐渓、富川大塊らとも交流した。明治7年、36歳で死去した。

坂田箭水(1844-1910)さかた・せんすい
天保15年蒲原郡舟戸村(現在の新潟市)生まれ。割元庄屋・坂田公遷の子。名は廉平。富取芳斎に師事して、山水画を得意とした。妻は芳斎の二女。明治43年、67歳で死去した。

多賀春洞(1847-1913)たが・しゅんどう
弘化4年蒲原郡曽根村(現在の新潟市)生まれ。通称は繁吉。富取芳斎に師事し、書にも親しんだ。大正2年、67歳で死去した。

諸橋湘江(1858-1929)もろはし・しょうこう
安政5年蒲原郡中之島村(現在の南魚沼市)生まれ。名は諒作。別号に寒々堂、養拙、東里がある。2歳の時に三島郡柿木村の庄屋・諸橋家の養子となった。富取芳斎に7年間学び、のちに長崎で守山湘帆のもとで4年間学んだ。明治16年、25歳で帰郷し、以後は村の経営にあたりながら画に親しんだ。昭和4年、72歳で死去した。

新潟(10)-画人伝・INDEX

文献:越佐の画人、にいがた幕末の絵師、越佐書画名鑑 第2版

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