江戸時代後期、平安時代以来の伝統を持つ大和絵の古典を学び、大和絵を復興しようとした画家たちを、後の時代に「復古大和絵派」と称した。その先駆者が尾張出身の田中訥言である。
田中訥言(1767-1823)は名古屋に生まれ、京都に出て土佐光貞の門に入り土佐派の画法を学び、さらに藤原信実、春日光長の画巻を研究し、古土佐の復興を唱えた。花鳥山水いずれにもすぐれ、有識故実にも詳しく、考証を極めた。その精神を受け継いだのが、名古屋の門人・渡辺清(1778-1861)と京都の浮田一蕙(1795-1859)である。さらに訥言の没年に生まれた岡田為恭(1823-1864)に継承されていった。
渡辺清は14歳で名古屋の町狩野の吉川英信の門に入り、英信没後はその子義信に従ったが、親しかった竹洞と梅逸の助言により土佐派に転向、京都に出て土佐光貞と田中訥言に師事した。門人としては、大石真虎、吉田蓼園、日比野白圭、木村金秋、小野四郎(高久隆古)、不動院香園、尾関東園、近藤芙山、夏目周岳、御塩春章、吉田逸言らがいる。
中年になって名古屋に来て渡辺清の門で学んだ高久隆古(1810-1858)は、清の没後京都に出て浮田一蕙に学んだ。のちに江戸に戻り活動するが、隆古に刺激されて、菊池容斎が狩野派から転じて歴史画家となり、さらには山名貫義、小堀鞆音、吉川霊華が現れ、次いで松岡映丘が出て新興大和絵を興した。
吉田蓼園(1827-1900)よしだ・りょうえん
文政10年5月名古屋堀切筋長者町生まれ。名は貞通のちに貞、通称は喜太郎、喜左衛門、別号に南甫、生斎がある。尾張藩士・吉田八郎の子。幼い頃から画を好み、長じて渡辺清につき土佐派を学んだ。国学、和歌を氷室長翁に学び、吉野に随行して『吉野紀行』の挿画を描いた。また、白川町法応寺の大和志貴山毘沙門開帳に際し、鳥羽僧正筆の志貴山縁起三巻を模写した。明治33年1月、74歳で死去した。
吉田逸言(1874-1947)よしだ・いつげん
明治7年12月名古屋市中区新柳町七丁目生まれ。名は冬彦。別号に有峰軒がある。吉田蓼園の長男。父につき土佐派の画法を学び、渡辺清を慕い隔世の師とした。古今の名画を模写し、土佐派を中心として淡彩画に一新機軸を出した。意匠図案に心がけ、古今の文様を集め、茶道、華道なども好んだ。昭和22年8月、74歳で死去した。
不動院香園(不明-1815)ふどういん・こうえん
海東郡津島の不動院の住職。僧名は宥如、姓は矢野。画を渡辺清に学び、高久隆古とも親交があり、互いに深く有識故実を研究した。また、蒔絵、彫刻もよくした。文化12年4月4日死去。
尾関東園(1834-1903)おぜき・とうえん
天保5年2月生まれ。名は祐命、通称は弥兵衛、別号に永がある。名古屋橘町の紙商柏彌の三代目主人。渡辺清に大和絵を学び、花鳥を得意とした。隠居したのちは東雲庵で画を描き、茶道、連歌を楽しんだ。明治36年10月、70歳で死去した。
近藤芙山(1806-1856)こんどう・ふざん
文化2年生まれ。通称は忠三郎、別号に煙霞斎、雪翁がある。名古屋伝馬町八丁目の武兵衛有隣の子。17歳の時に渡辺清の門に入り土佐派を学び、のちに松野梅山について狩野派の画法を修めた。安政3年5月11日、51歳で死去した。
夏目周岳(1807?-1875)なつめ・しゅうがく
文化5年生まれ。通称は重八。別号に桐井堂がある。三州吉田上伝馬町に住み、表具師を業とした。渡辺清に土佐派を学んだ。俳諧、狂歌を好んだ。明治8年6月16日、68歳で死去した。
御塩春章(1825-不明)みしお・しゅんしょう
文政8年8月14日名古屋生まれ。御塩春造の子。渡辺清に土佐派を学び、のちに松吉樵渓について四条派を修めた。飛騨地方を遊歴した。
尾張(11)-画人伝・INDEX