画人伝・秋田 狩野派 史跡・名勝

大地震で隆起する前の「象潟」を描いた本荘画工の始祖・牧野永昌

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牧野永昌「象潟図屏風」(上:右隻、下:左隻)秋田県指定重要文化財

本荘藩御用絵師の初代である牧野永昌(1747-1823)は、秋田狩野の祖とされる狩野定信とは別系統に属する狩野派の絵師で、いわゆる本荘画工といわれる一連の画人の始祖である。はじめ藩の絵師に手ほどきを受けたが、才能が認められ、その後江戸狩野の狩野梅笑について学び、法橋に叙され、本荘藩のお抱え絵師となった。牧野家は代々優れた画人を輩出しており、なかでも永昌を初代とし、梅僊、雪僊と続いた三代は際立った仕事を残している。

永昌の代表作のひとつに「象潟図屏風」(掲載作品)がある。象潟(きさかた)は、潟のなかに多くの島が点在した名勝の地で、松尾芭蕉が『奥の細道』で「きさかたや雨に西施か合歓の花」と詠んだほか、多くの文人墨客が訪れ創作の題材にしている。しかし、文化元年(1805)の大地震によって潟底が隆起し、潟は陸化して島々は陸の中に残された形となって現在に至っている。

この「象潟図屏風」は、当時の風光を偲ぶものとして六郷卿に命じられて描いたものと思われ、右隻画面上部には雪を抱いた鳥海山が見え、中央には潟のなかに点在する島々や、その間に浮かぶ潟舟などが描かれ、それぞれの島や町内、神社仏閣には当時の名称が書き添えられ、往時の様子を伝えている。

牧野永昌(1747-1823)まきの・えいしょう
延享4年本荘城下後町生まれ。名は興信。別号に遊心斎、高興がある。はじめ本荘の鈴木梅山に学び、のちに江戸に出て狩野梅笑に師事し、法橋に叙され、本荘藩のお抱え絵師となった。文政7年、77歳で死去した。

牧野梅僊(1778-1823)まきの・ばいせん
安永7年本荘生まれ。牧野永昌の養子。名は昌興。初号は梅仙、別号に牧遊斎がある。養父永昌に狩野派を学び、中年になって京都に上り狩野永岳に師事し、のちに松村景文に私淑した。京都では青蓮院に出入りし、力量が認められて法眼の位を得た。その後江戸勤めとなり、本荘藩のお抱え絵師となった。文政7年、47歳で死去した。

牧野雪僊(1820-1904)まきの・せっせん
文政4年本荘城下中横町生まれ。牧野梅僊の子。名は慶吉、ほかに玄昌、立昌がある。3歳で父梅僊と祖父永昌を失ったが、その年、藩主の特別の計らいで二人扶持を受け、画道に精進するように将来を期待された。10歳で母を亡くし、藩財政悪化のため一時扶持を減らされたが、絵師として修業に専念した。45歳で江戸勤めとなり、江戸木挽町の狩野永悳に師事した。明治37年死去した。

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文献:本荘市史(文化・民族編)、秋田県立博物館収蔵資料目録、秋田書画人伝







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