画人伝・尾張

名古屋四条派の祖・野村玉渓

尾張における四条派は、必ずしも表立ったものではなかったが、写実的で温厚な画風は、浅く広く受け入れられ、多くの画家に影響をあたえた。

円山応挙に師事した人物としては、名古屋の味噌商の家に生まれた月僊(1741-1809)がいる。のちに伊勢山田の寂照寺の住職となってその復興と社会福祉事業にあたったことで名高く、作品も伊勢を中心とした地方に多く残されている。名古屋・三河地方にも多い。岡崎市の随念寺と昌光律寺には、障壁画をはじめ多数の月僊画が伝わっている。

呉春(松村月渓)の画風を名古屋に伝えたのが、名古屋四条派の祖とされる野村玉渓であり、常に呉春の画風を慕った佐々木月岱である。玉渓は多くの弟子を育て、松吉樵渓、鷲見春岳、奥村石蘭らが活躍した。月岱の門人には、佐々木介堂、河村穆堂らがいる。

野村玉渓(1785-1857)のむら・ぎょっけい
天明5年生まれ。通称は参吾。幼い頃から画を好み、文化4年に京都に出て呉春(松村月渓)の画僕をしながら画を学んだ。5年後に帰郷して画を業とし、多くの門人を養成して「名古屋四條派の祖」と称された。田中訥言小島老鉄、秦鼎、植松茂岳らと親しく交わり、俳諧も巧みだった。安政4年3月20日、73歳で死去した。

佐々木月岱(不明-1870)ささき・げったい
尾張藩持筒組の小吏で、はじめ吉川君渓について狩野派を学び、のちに京都に出て岡本清暉の門に入り四条派を修め、常に呉春(松村月渓)の画風を慕い、月岱と号した。子に介堂、英春の兄妹がいて、ともに四条派の画をよくした。明治3年5月27日死去。

松吉樵渓(不明-1870)まつよし・しょうけい
張月樵に学んで樵渓と号した父の跡を継ぎ、のちに野村玉渓に四条派の画法を受け、同門の中で第一の達筆と称されるようになった。その後、尾張藩最後の御用絵師となった。明治3年11月13日死去。

木村雲渓(1829-1880)きむら・うんけい
文政12年生まれ。名は元雅、字は士尚、通称は六右衛門。別号に雪渓、見外山人がある。名古屋本町の扇子商・玉屋六右衛門の長男。野村玉渓に師事して四条派の画を修めた。明治13年、52歳で死去した。

鷲見春岳(1821-1893)わしみ・しゅんがく
文政5年生まれ。名は利恭、通称は豊助または徳蔵、別号に澹斎、鹿芝翁がある。尾張藩の勘定方同心で、公務の余暇に画を野村玉渓に学び、四条派の画をよくして奥村石蘭と並び称された。文雅の士との交流を楽しみ、また席上揮毫をして門下生に技を競わせた。のちに春秋書画会を門前町大光院に開き、斯道の興隆に尽くした。明治26年6月24日、72歳で死去した。

若林素文(1828-1884)わかばやし・そぶん
文政11年5月4日熱田須賀町生まれ。名は金吾。医師・浅井杏庵の三男。尾張藩士・若林氏を嗣ぎ、名古屋下前津に住んだ。13歳の時に野村玉渓について画を学び、最も臨模に長じていて、馬島明眼院にある応挙の襖絵を写した。明治17年5月美濃に遊歴中に、57歳で死去した。

奥村石蘭(1834-1897)おくむら・せきらん
天保5年4月名古屋白山町生まれ。名庸、通称源吾または大助、字可均。別号に楓斎、庸堂主人、知芳園がある。尾張藩士・奥村佐平の子。13歳の時に野村玉渓の門に入り四条派の画を学び、のちに京都に出て横山清暉に師事、名古屋に帰り門人を多く育てた。明治28年2月、62歳で死去した。

服部雲仙(1831-1895)はっとり・うんせん
天保2年6月18日生まれ。通称は平八。春日井郡杉村の服部平右衛門の子。画を鷲見春岳に学び、のちに野村玉渓、森義章について四条派を修めた。明治28年1月29日、62歳で死去した。

佐分柳喬(不明-1853)さぶり・りゅうきょう
名古屋鍋屋町の銭屋という質商。画を好み、野村玉渓に師事した。尾張藩士・跡部氏が桜草を好み園中に栽培していて、異花奇種があるたびに柳喬に写生させていたので、桜草の作品が多い。安永6年11月24日死去。

佐々木介堂(不明-1895)ささき・かいどう
佐々木月岱の子。父に四条派を学んだ。名古屋の同好画会のため尽力した。明治28年8月21日死去。

豊田松堂(1833-不明)とよだ・しょうどう
天保4年1月4日名古屋辰巳町生まれ。字は義峰、通称は惣兵衛。別号に可楽、喜雅、耕雲がある。佐々木月岱に師事し、月岱没後は森義章について写生画を研鑚、山水、花鳥を得意とした。明治天皇御慶事の際に富士山の図を献上した。帝国絵画協会会員。

佐藤精斎(1836-1905)さとう・せいさい
天保7年生まれ。名は重昌。名古屋白山町に住んでいた。嘉永5年から佐々木月岱に師事。のちに元明諸家および費晴湖の筆意を学んだ。門人に長坂昌斎がいる。

河村穆堂(1839-1880)かわむら・ぼくどう
天保10年生まれ。名古屋の人。佐々木月岱に四条派を学び、のちに柴田義董、岡本清暉を慕い、京都に遊学した。明治13年、41歳で死去した。

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文献:愛知画家名鑑




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