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土佐南画の流れ、楠瀬南溟から松村蘭台へ

松村蘭台「飲中八仙図」高知県立美術館蔵

中山高陽亡き後の土佐の南画は、大坂に出て木村兼葭堂、福原五岳ら池大雅系の文人たちと交流した楠瀬南溟(1743-1790)にはじまり、門人の松村蘭台、子の楠瀬大枝らがその流れを引き継いだ。松村蘭台は楠瀬南溟に狩野派を学び、師の南溟が福原五岳について画風を改めた際に、師にならい南画に改めた。楠瀬大枝は松村蘭台を敬慕し、国学者の道を進みながら、独学で画法を究め、文化・文政・天保期の土佐画壇の中心人物となった。松村蘭台の門人には島本蘭溪、仁尾鱗江、岡本池陽らがいる。

楠瀬南溟(1743-1790)
寛保3年城東新町生まれ。延享4年、5歳の時に父・六右衛門を失い、母の手で育てられた。初名は兼太郎、ついで重右衛門、さらに六郎左衛門と改めた。字は子樹、実名は安信、正信。狩野派の横山竹林斎に師事し画法を学んだ。また、早くから谷真潮に和漢の学を受けて実践に移し、弓は雪下流、槍は高木流、居合は田宮流などを修め、兵法にすぐれていた。安政5年に長男の雄太郎(大枝)が生まれ、同年大坂に出た。当時大坂の土佐藩邸に親しく出入りしていた人に硯儒豪商の木村兼葭堂がいて、南溟の従弟である来正謙斎はながく大坂に住み兼葭堂の常客だったため、その縁で親しくなったものと思われ、親しく交遊している。南溟は画の基本である芥子園画伝を兼葭堂に習い、その家に出入りしていた大雅同門の福原五岳に南画の筆法を学んだ。天明6年、11年間過ごした大坂を出て土佐に戻るが、藩命によりたびたび江戸に出て、寛政2年、駿府の地で48歳で死去した。

松村蘭台(1760-1820)
宝暦10年、現在の高知市に生まれた。通称は甚四郎、のちに十兵衛。文化11年に名を仲素に改めた。字は玄卿。別号に南洋の釣徒快石叟がある。楠瀬南溟に狩野派を学び、南溟が福原五岳について画風を改めた際に、蘭台も師にならい南画に改めた。享和元年、豊興公に虎の画の数々を献上した。文政2年、山内豊策から書画指出に指名され土佐南画界の第一人者となった。門人に島本蘭溪、仁尾鱗江らがいる。文政3年、61歳で死去した。

島本蘭溪(1772-1855)
安永元年生まれ。通称は九十郎、実名は清江。島本与市の三男。幼いころから学問のかたわら書画をよくし、松村蘭台に師事した。たびたび大坂に出て懐徳書院・中井竹山に師事して儒学を学ぶとともに、福原五岳に画を習い、木村兼葭堂と交遊した。書画と学問の寺子屋を経営していた。安政2年、84歳で死去した。

仁尾鱗江(1774-1833)
安永3年生まれ。通称は順蔵、のちに清大夫と改めた。新市町で紙筆商と薬種商を営んでいた。画を松村蘭台に学んで、人物画をよくした。幼い絵金(弘瀬洞意)に画の手ほどきをし、藩の御用絵師・池添楊斎に師事するようにすすめたとされる。天保4年、60歳で死去した。安政元年、地震で亡くなったという説もある。

岡本池陽(不明-不明)
通称は理右衛門、名は信敬。松村蘭台に師事した。藩政時代に信仰された大黒像を描いて特に著名で、その絵は「理右衛門大黒」と呼ばれ人気だった。

高知(11)画人伝・INDEX

文献:土佐画人伝坂本龍馬の時代 幕末明治の土佐の絵師たち近世土佐の美術、海南先哲画人を語る




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