画人伝・高知 狩野派 風俗図・日常風景 人物画 美人画・女性像

絵描きの金蔵

弘瀬洞意(絵金)「美人図」

江戸で駿河台狩野に学ぶ機会を得た、土佐の髪結いの息子・金蔵は、わずか3年で「洞意」の号を得て帰郷し、土佐藩家老桐間家の御用絵師をつとめた。腕もたち、人気にも恵まれた若き狩野派の絵師・金蔵は順調に画業を重ねていくかにみえたが、贋作を制作した疑いをかけられて失脚、身分を失った。町絵師となった金蔵の行動は謎も多いが、10年を越える空白期間を経て、「芝居絵屏風」の「絵金」として蘇った。中央にもない芝居絵の様式を創出した絵金の仕事は、多くの弟子や孫弟子たちによって描き継がれ、「絵金」の名前は広く親しまれるようになった。戦前までの土佐では、「絵金」は「絵描き」そのものを意味する言葉となっていて、子供が絵を描いていると、「絵金になるがや」と語りかけるのが常だったという。

絵金(弘瀬洞意)(1812-1876)
文化9年生まれ。高知城下はりまや橋近くの新市町の髪結いの長男。通称は金蔵。幼いころから画を好み、近所の紙筆商兼薬種商で南画を描いていた仁尾鱗江に画を習い、16歳の時には藩の御用絵師・池添楊斎美雅に入門し「美高」と名乗った。18歳の時に江戸遊学の機会を得て、江戸土佐藩の御用絵師・前村洞和に入門した。さらに、駿河台狩野六代・狩野洞益春信につき、四代・洞春美信の画風に親しんだとされる。わずか3年の修業で「洞意」の号を得て、天保3年には帰郷して家老桐間家の御用絵師となり、藩医の林家の姓を買い「林洞意」と名乗った。

若き狩野派絵師は腕もたち、人気もあった。しかし、順風だった洞意に贋作事件がふってわいた。33歳の頃と思われるが、古物商から依頼され狩野探幽の「蘆雁図」を伝写したところ、業者がこれに落款印章を押して売りに出した。買主から鑑定を依頼された南画家・壬生水石は洞意の作と見破り、洞意は失脚し身分を失うこととなった。

町絵師となった金蔵は、町医師・弘瀬の姓を買い「弘瀬柳栄」と名乗り、号を友竹とした。その後の行動は不明な点も多いが、歌舞伎、浄瑠璃を題材に、芝居絵、屏風、絵馬提灯、奉納絵馬、横幟、絵巻物、凧絵など多彩な制作を行ない、特に二曲一隻屏風に描いた「芝居絵屏風」は、独創的な構図と強烈な色彩で評判となり、絵描きの金蔵を略した「絵金」と呼ばれて親しまれた。

晩年は雀七、雀翁と改号し、ひすら好きな画を描いていたが、明治6年、突然中風症を患い、自由を失った右腕にかえて、左手で描いていた。その後も養生に専念し、右手で描けるくらいに回復したが、明治9年再発し、65歳で死去した。

高知(6)画人伝・INDEX

文献:土佐画人伝近世土佐の美術坂本龍馬の時代 幕末明治の土佐の絵師たち、海南先哲画人を語る




You may also like

おすすめ記事

1

長谷川等伯 国宝「松林図屏風」東京国立博物館蔵 長谷川等伯(1539-1610)は、能登国七尾(現在の石川県七尾市)の能登七尾城主畠山氏の家臣・奥村家に生まれ、のちに縁戚で染物業を営む長谷川家の養子と ...

2

田中一村「初夏の海に赤翡翠」(アカショウビン)(部分) 昭和59年(1984)、田中一村(1908-1977)が奄美大島で没して7年後、NHK教育テレビ「日曜美術館」で「黒潮の画譜~異端の画家・田中一 ...

3

横山大観「秩父霊峰春暁」宮内庁三の丸尚蔵館蔵 横山大観(1868-1958)は、明治元年水戸藩士の子として現在の茨城県水戸市に生まれた。10歳の時に一家で上京し、湯島小学校に転入、つづいて東京府小学校 ...

4

北野恒富「暖か」滋賀県立美術館蔵 北野恒富(1880-1947)は、金沢市に生まれ、小学校卒業後に新聞の版下を彫る彫刻師をしていたが、画家を志して17歳の時に大阪に出て、金沢出身で歌川派の流れを汲む浮 ...

5

雪舟「恵可断臂図」(重文) 岡山の画家として最初に名前が出るのは、室町水墨画壇の最高峰に位置する雪舟等楊(1420-1506)である。狩野永納によって編纂された『本朝画史』によると、雪舟の生誕地は備中 ...

-画人伝・高知, 狩野派, 風俗図・日常風景, 人物画, 美人画・女性像

© 2024 UAG美術家研究所 Powered by AFFINGER5