画人伝・高知 狩野派

駿河台狩野と土佐の狩野派

土佐藩の御用絵師である村上家は、狩野探幽やその弟子たちに学んできた。近世土佐の狩野派随一の画人と称された近藤洞簫(1653-1693)も、村上家に入門し狩野派を学んだのち、江戸に出て探幽の養子である駿河台狩野家の祖・狩野洞雲益信(1625-1694)に師事した。その後、土佐の画人たちは駿河台狩野家とのつながりを深めていく。橋本雲山、伊藤越川、松崎敬信、箕浦桂林、祖父江洞常らが四代・狩野洞春美信(1747-1797)に学んだ頃の土佐では「床に美信を飾り、襖に高陽を入れるをもって誇りとした」とされるほどの人気を誇っていた。

近藤洞簫(1653-1693)
承応2年生まれ。通称は小平次、のちに半平。名は益喜、益尚、益親。別号に丹静斎、自斎、龍耳がある。父は安芸の近藤吉右衛門、母は池氏。府下唐人町に住んでいた。山内の絵師だった村上家で画を学んだのち、江戸に出て駿河台の祖・の狩野洞雲益信に師事した。元禄6年、41歳で死去した。

松崎敬信(不明-不明)
諱は徳清、未伸軒と号した。土佐藩士。安永年中に江戸藩邸に勤番し、余暇に四代・狩野洞春美信の門に入って学んだ。好んで大黒天の尊像を作った。徳弘石門の最初の師とされる。

箕浦桂林(1779-1813)
明和8年生まれ。名は次太郎。箕浦右源次の長男。江戸に出て四代・狩野洞春美信に師事した。文化10年、35歳で死去した。

橋本雲山(不明-1822)
通称は武左衛門、名は明信。父は甚左衛門。江戸に出て四代・狩野洞春美信に師事した。文政5年死去。

伊藤越川(不明-1836)
通称は清太夫、名は正堯。土佐藩馬廻の藩士。はじめ前野河洲について学び、のちに江戸に出て四代・狩野洞春美信に師事した。天保7年病死。

祖父江洞常(不明-1855)
通称は陶吉、名は勘備、前名は信弥。江戸に出て四代・狩野洞春美信に師事した。安政2年、32歳で死去した。

田中貝峯(1757-1833)
宝暦7年生まれ。通称は初め門太、のちに門蔵。名は知雄。はじめ聞水と号したとされる。別号に幽篁斎、庭遙斎がある。画は壮年になって江戸に官遊の際、駿河台狩野の石里洞秀美章について学び、その画法をよく守った。門下には、岩井三平、徳弘石門、弘瀬洞意らがいる。天保4年、77歳で死去した。

高知(2)画人伝・INDEX

文献:土佐画人伝近世土佐の美術




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