UAG美術家研究所

江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま東北地方を探索中。

画人伝・大分 狩野派 雪舟系 山水・真景

豊後府内に住み、沈堕の滝を描いた雪舟

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狩野常信「鎮田滝図」(模本)京都国立博物館

雪舟等楊(1420-1506)の前半生については不明な点が多く、若いころに京都に出て相国寺の春林周藤に禅を学び、僧としての修業のかたわら、如拙や周文の画を学んだとされる。はっきりしてくるのは40代になってからで、43歳の時に山口に移住して大内氏の庇護の下で作画活動を行い、その後中国の明に渡って水墨画を学んだことは広く知られている。しかし、明から帰国してからの一時期、豊後府内(現在の大分市)にアトリエを設け、勢力的に作画活動を行っていたことはあまり知られていない。

雪舟が明に渡る時に同行した呆夫良心が記した『天開図画楼記』によると、明から帰国した雪舟は、文明8年、豊後府内に「天開図画楼」というアトリエを設けたとされる。天開図画楼は、眼前(北方)に別府湾を望み、南方には大分平野南部の山々を仰ぎ、西方には大友氏が設けた高崎山城がそびえ、東方には河口で二つの流れに分流する大分川が見える景勝の地にあったという。この地で雪舟は精力的に作画活動をしたとみられ、『天開図画楼記』には、水墨画家として物心ともに充実した状況にある雪舟の様子が記されている。

天開図画楼の所在地については諸説あるが、現在の大分市上野あたりが有力とされる。立川輝信の論文「雪舟と大分県」によると、その根拠として、「天開図画楼記」に記してある景観に一番よく合致していることや、雪舟が豊後入りの際に頼ったと思われる万寿寺に近く、閑静な場所であることが挙げられている。また、立川は論文の中で、この件に対する市民の関心のなさを嘆き、雪舟と大分の関係に興味を持ってもらおうと、昭和27年(1952)に大分市上野の金剛宝戒寺境内に雪舟記念碑を建立した経緯も記しており、碑は現在も残っている。

雪舟が豊後に住んでいた時に描いた水墨画として唯一その構図が明らかな作品に「鎮田滝図」がある。原図は関東大震災で焼失したが、近世中期に狩野常信が描いた模本が残っている。この図は、雪舟が現在の豊後大野市にある沈堕の滝を実際に訪れて描いた真景図とされる。

後藤碩田は、その著書『豊後古蹟名寄』の中で、「雪舟が此の瀑の真景を写したるものは大友氏に伝わり、後肥後の加藤氏に贈れり。加藤忠広除封の時、徳川氏に没収せられ後又津軽家に賜ふとぞ、山鹿素行の話あり。岡の中川家には狩野常信が雪舟の図を再模せし者有とぞ聞ゆる」とその経緯について記している。

雪舟等楊(1420-1506)
応永27年備中赤浜生まれ。俗姓は小田。別号に雲谷、備渓斎、米元山主、楊智客、真雪、雲谷軒などがある。前半生については不明な点が多いが、若いころに京都に出て相国寺の春林周藤に禅を学び、僧としての修業のかたわら、如拙や周文の画を学んだとされる。寛正3年、43歳の時に寺を去り、周防山口の大内氏を頼って移り住んだ。応仁元年、48歳の時に幕府の遣明船で明に渡り、天竜山に参じて第一座の名を与えられ、北京では礼部院の壁画を描き、文明元年に帰国した。帰国後は一時期豊後府内に住み、文明18年頃からは山口県周防の雲谷庵を拠点に諸国を遍歴した。永正3年、87歳で死去した。

狩野常信(1636-1713)
寛永13年生まれ。木挽町狩野家・狩野尚信の子。幼名は三位、通称は右近。別号に養朴、寛耕斎、耕寛斎、紫薇翁、古川叟、青白斎、寒雲子、潜屋などがある。慶安3年父・尚信が没したため、15歳で木挽町狩野家を継いだ。父没後は伯父の狩野探幽に画を学んだとされる。山水、人物、花鳥獣、草木などに優れ、中務卯法印に叙せられ、父以上といわれた。古画の鑑識も高く、俳諧もよくした。正徳3年、78歳で死去した。

文献:雪舟と大分県(著者:立川輝信)、大分縣地方史第194号 雪舟・狩野永徳と豊後大友氏(著者:鹿毛敏夫)、豊後古蹟名寄、雪舟流と狩野派、没後500年特別展 雪舟

雪舟の暗号―日本人の心をさぐる
柴田 哲心
里文出版







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