画人伝・高知 狩野派

土佐の初期画人

約400年前に竣工された高知城の三の丸内部は、狩野派と長谷川派の絵師たちによって装飾されたことが伝わっている。そのうちの大広間上段や松の間の装飾は、土佐在住の狩野派の画人・高島孫右衛門が手掛けたものとされる。また、土佐の戦国史料のなかでも屈指の文献とされる長宗我部元親の一代記『元親記』を著わしたのも高島孫右衛門の名である。高島は、父子同名のところから『元親記』の著者を父とし、子の孫右衛門を画人とする説もあるが、同一であるとする説もある。また、土佐藩の御用絵師をつとめた村上十兵衛も父子同名で、雅号の読みも紛らわしいことから諸説あるが、『土佐画人伝』では、初代十兵衛了画、二代十兵衛了円、三代十兵衛龍臥(専助守継)、四代十兵衛龍円(専烝守常)の順であろうとしている。他には、狩野派の画人として近森半九郎、横山竹林斎、前野河洲らがいる。

高島孫右衛門(不明-不明)
長宗我部元親に仕えていたが、長宗我部氏滅亡ののちに山内氏に仕えた。画を好み狩野派に学んだ。慶長6年高知城が築営された時に三の丸に障壁画を描いた。寛文頃には存命で、当時無双と称されたという。

村上専助(不明-不明)
通称は十兵衛。旧姓松永。諱は守継。龍臥と号した。二代十兵衛には道全という実子がいたが絵師には向かず、専助が養子となって村上家を継ぎ、藩の御用絵師となって潮江村に住んだ。探幽系・村上家では最高の画人と称された。天和3年、藩主・豊昌が潮江村竹島で鷹狩をした際に大真鶴を捕獲、その時の様子を専助に命じて三の丸の玄関に描かせたという。専助の子が四代専烝守常。

近森半九郎(不明-1724)
名は常好、または常雅。江戸の狩野常信に学び、三湖、または古流と号した。高い技量を誇っていたが、師の絵の贋作の罪に問われ斬首された。ほとんどの作品は没収、焼却され、現在まで残っている作品は少ない。享保9年死去。

横山竹林斎(不明-1781)
名は守寿、通称は弁蔵。高知潮江、三軒屋に住んだ。享保15年足軽に召出され江戸に出て狩野探常の門に学んだ。元文2年に探常から守の一字を許され「守寿」と称した。帰郷後、抜擢されて御用絵師となった。享保大火ののちに延享2年城内二の丸新築の際に桜の間の襖絵を描いた。天明元年病死した。実孫の弥八郎が天保14年に罪を犯し録を没収され家は途絶えた。

前野河洲(不明-1792)
名は久右衛門。若いころから家にあった探幽画に私淑し、江戸詰めの間は常信の孫である狩野典信に学んだ。寛政4年病死。

高知(1)画人伝・INDEX

文献:土佐画人伝近世土佐の美術、海南先哲画人を語る、高知県立美術館館蔵品目録




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