画人伝・岩手 狩野派 中国故事

盛岡藩の国元狩野派・石川家

左:石川林泉(初代)「大黒天図」
右:石川林流「猿廻し図」

石川家初代の主親庄蔵は、森五郎右衛門吉道の四男で、藤田永寿岸信の弟。宝永2年に絵書の梅内久兵衛が死去して絵師不足となり、絵師に召し抱えられたとされる。主親は翌年江戸に出て中橋狩野家の狩野永叔主信のもとで8年間修業し、正徳4年に国元に戻った。主親の死去した元文5年に子・林泉主幸(1718-1808)はわずか3歳で、親戚の口添えで御目付所職人となり、のちに御小納戸支配の職人に編入された。

石川家三代の林流主景(1768-1834)は、江刺市左衛門家来の口内政右衛門の子で、初代林泉の弟子だったが、天明6年19歳で婿養子となり、寛政5年に家督を継いだ。養父の初代林泉のほか、湯川玉流にも絵を学んだ。作品としては、文化4年制作の「神功皇后・武内宿禰図」のほか、「私鑑抄」によれば、文政12年に鷹図の制作を命じられている。

石川家四代の林泉主春(1796-1876)は、林流の門弟から養子となった。家督相続後の弘化4年、麻布一本松狩野家の狩野休清実信の計らいで狩野姓を名乗った。嘉永5年から安政4年まで御給人並となり、のちに御小納戸支配に戻っている。天保13年造営の清水御殿普請御用をつとめたほか、嘉永4年竣工した報恩寺羅漢堂に天井画「龍図」を描いた。

石川林泉(初代)(1718-1808)いしかわ・りんせん
享保3年生まれ。名は主幸。通称は庄蔵。主親庄蔵の子。父の主親庄蔵が病死したときは、まだ3歳だったため、親戚の口添えで御目付所職人となり、のちに御小納戸支配の職人に編入された。寛政4年老齢を理由に隠居。文化5年、91歳で死去した。

石川林流(1768-1834)いしかわ・りんりゅう
明和5年生まれ。名は主景。江刺市左衛門のもと家来の口内政右衛門の子で、通称は左助という。天明6年に19歳で林泉主幸の婿養子となった。養父と湯川玉流について絵を学び、寛政5年、36歳で絵師を継いだ。天保5年、67歳で死去した。

石川林泉(2代)(1796-1876)いしかわ・りんせん
寛政8年生まれ。名は主春。通称は四郎治、栄八、佐助(襲名)。林流主景の門弟から養子となった。別号に歓々斎がある。弘化4年狩野姓を名乗ることを許された。嘉永5年御給人並となり、安政4年御給人並から御絵師に復した。御小納戸支配の御絵師をつとめた。明治9年、82歳で死去した。

岩手(4)-画人伝・INDEX

文献:盛岡藩の絵師たち~その流れと広がり~、青森県史 文化財編 美術工芸




You may also like

おすすめ記事

1

長谷川等伯 国宝「松林図屏風」東京国立博物館蔵 長谷川等伯(1539-1610)は、能登国七尾(現在の石川県七尾市)の能登七尾城主畠山氏の家臣・奥村家に生まれ、のちに縁戚で染物業を営む長谷川家の養子と ...

2

田中一村「初夏の海に赤翡翠」(アカショウビン)(部分) 昭和59年(1984)、田中一村(1908-1977)が奄美大島で没して7年後、NHK教育テレビ「日曜美術館」で「黒潮の画譜~異端の画家・田中一 ...

3

横山大観「秩父霊峰春暁」宮内庁三の丸尚蔵館蔵 横山大観(1868-1958)は、明治元年水戸藩士の子として現在の茨城県水戸市に生まれた。10歳の時に一家で上京し、湯島小学校に転入、つづいて東京府小学校 ...

4

北野恒富「暖か」滋賀県立美術館蔵 北野恒富(1880-1947)は、金沢市に生まれ、小学校卒業後に新聞の版下を彫る彫刻師をしていたが、画家を志して17歳の時に大阪に出て、金沢出身で歌川派の流れを汲む浮 ...

5

雪舟「恵可断臂図」(重文) 岡山の画家として最初に名前が出るのは、室町水墨画壇の最高峰に位置する雪舟等楊(1420-1506)である。狩野永納によって編纂された『本朝画史』によると、雪舟の生誕地は備中 ...

-画人伝・岩手, 狩野派, 中国故事

© 2024 UAG美術家研究所 Powered by AFFINGER5