福山藩主の阿部氏は代々、学問、文芸、芸術などを積極的に奨励し、藩主自らも風雅を好み、画を描いた。なかでも三代阿部正右(1724-1769)、四代阿部正倫(1745-1805)、五代阿部正精(1774-1826)の作品は多く残っており、特に正精は詩書画に巧みで、棕軒と号して沈南蘋風の画を描いた。正精のお抱え絵師だった江戸詰の村片相覧(1778-1846頃)は寛政12年に村片家に養子として入った住吉派の絵師で、その作品は福山地方の神社に奉納された絵馬に多く見られる。また、広島藩の大和絵派としては、中川墨湖とともに「芸藩通志」の挿画を描いた土佐派の河原南汀(1776-1831)がいる。
村片相覧(1778-1846頃)
安永7年生まれ。福山藩士。名は平蔵、のちに相覧。諱は武邦。松平周防守家中・斎藤彦六郎の弟。代々阿部家に仕えてきた村片家の家督を継ぐために養子となった。住吉派の画をよくし、江戸詰の御用絵師として、藩主・阿部正倫、正精、正寧、正弘の四代に仕えた。文化9年阿部神社創立の御用を勤め六十五俵取りとなった。文政4年の「江戸御家中席順役高并年齢帳」によると、御側絵師と記されており、阿部正精の絵画指導をしたことがうかえる。没年は不明だが、六十九翁と款記された作品が残っているため少なくとも弘化3年(1846)までは生存していたと思われる。没後は子の周覧が家督を継いだ。
阿部正精(1774-1826)
安永3年江戸生まれ。福山藩阿部氏五代藩主。阿部正倫の三男。名は運之助、字は子純、通称は主計。庭前に棕櫚と芭蕉を植えたことから、棕軒、蕉亭と号した。30歳で藩主となった。詩書画に巧みで、画は沈南蘋を愛したという。文政9年、53歳で死去した。
河原南汀(1776-1831)
安永5年生まれ。広島藩御用絵師。名は實秀、通称は勇次郎。土佐派の画をよくした。中川墨湖とともに「芸藩通志」の挿画を描いた。天保2年、56歳で死去した。
広島(7)-画人伝・INDEX
文献:広島県先賢傳、福山藩の日本画、福山の日本画展、安芸・備後の国絵画展