
狩野山楽「龍虎図屏風」(左隻部分)重文 京都・妙心寺蔵
狩野派は、狩野正信によって京都の地で始まり、その4代目にあたる永徳の時代に絶頂期を迎えた。永徳は、織田信長や豊臣秀吉に重用され、豪快でスケール感あふれる画業を展開し、カリスマ的存在で一門を統率したが、48歳で急逝してしまう。永徳亡き後、狩野派の絵師たちは、むしろ永徳スタイルの呪縛から解き放たれ、子の光信をはじめ各々が個性を発揮し、百花繚乱の様相を呈するようになる。
ところが、慶長20年(1615)、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡し、江戸で徳川幕府が成立すると、永徳の孫にあたる探幽をはじめ、狩野派の中枢は徳川幕府直属の家臣に取り立てられ、江戸に本拠地を移すことになった。これを機に、探幽は自ら作り上げた瀟洒な作風によって狩野派の様式を一変させた。これにより江戸の地を中心に、探幽様式で統括された巨大な画家集団ができあがり、のちに「江戸狩野」と称された。
主要な一族や門弟たちが江戸に向かうなか、永徳の有力門人のひとり・狩野山楽は、京都に留まった。山楽は、近江(滋賀県)の浅井氏の家臣の家に生まれ、浅井氏滅亡後は豊臣家の配下に入り、秀吉に画才を認められ、永徳の門に入り画を学んだ。その恩を忘れることなく、永徳没後も光信らが画風を変革するのをよそに、師風を守りとおし、最後まで永徳気分の強い作品を描き続けた。
山楽の画系は代々京都で画業を引き継ぎ、のちに「京狩野」と称された。永徳の画風は狩野派では顧みられず、むしろ京狩野へと引き継がれた。
狩野山楽(1559-1635)かのう・さんらく
→京狩野の祖・狩野山楽
京都(62)-画人伝・INDEX
文献:狩野永徳と京狩野、狩野派決定版、桃山絵画の美、日本絵画名作101選、日本の美術14 桃山の障壁画、日本美術絵画全集・第12巻







