画人伝・愛媛 南画・文人画家 四君子(梅蘭竹菊)

伊予南画の先駆者・吉田蔵澤、正岡子規も愛した竹の名手

吉田蔵澤 左:風竹、右:墨竹

伊予南画の先駆的な存在としては吉田蔵澤(1722-1802)があげられる。蔵澤が長崎南画との出会いによって墨竹を始めたころは、ちょうど池大雅や与謝蕪村らによる日本南画の黎明期にあたり、蔵澤の先駆性ははやくから高い評価をうけている。蔵澤の墨竹は晩年になるにしたがって、その画境に一種独特の精神性をみなぎらせていった。伊予出身の俳人・正岡子規も蔵澤の竹を愛し、「蔵澤の竹も久しや庵の秋」という句を詠み、東京根岸の庵にその軸を掛けて郷里の画人を讃えた。蔵澤の後継者としては甥の大高坂南海がいる。南海は松山藩の儒者・大高坂家七代の当主にあたり、蔵澤の画風をそのままに伝えた。画系は南海の弟子の丸山閑山、その弟子の中野雲涛へと伝わっている。

吉田蔵澤(1722-1802)
享保7年生まれ。松山藩士。名は良香、字は子響、通称は彌三郎、のちに吉田家の世襲名である久太夫を名乗った。別号に豫章人、贅巌窟、白雪堂主人、應乾、翠蘭亭、倦翼、東井、白浜鴎、不二庵、酔桃館などがある。宝暦13年、42歳の時に風早郡の代官となり、明和6年には野間郡の代官も兼ね、18年間その職にあり、中間搾取の排除、公僕精神の強化など農民の立場に立った善政を行ない信望を集めた。天明元年には特筒頭、天明4年には者頭となり藩政に参画した。画は20歳代に狩野派の木村東巷に学び、50歳前後から明清絵画に影響を受けた墨画を盛んに描き始めたとみられる。当初は蘭、菊、梅などを多く描いていたが、やがて竹を専門に描くようになり、70歳を越えて変幻自在で精神性の高い墨竹画に到達し、「竹の蔵澤」と称された。享和2年、81歳で死去した。

大高坂南海(1766-1838)
明和3年生まれ。松山藩の儒者で、吉田蔵澤の甥。松山藩士・山本義唯の次男で、19歳の時に大高坂家を継いだ。名は龍雄、通称は四郎兵衛、字は延年、のちに太平。別号に舎人、天人、南海、如風、魯斎、玉亀などがある。墨竹の名手である叔父・蔵澤から指導を受け、そn真髄を継承した。漢詩にもすぐれ、漢詩集『竹石余花』や儒・仏・神の三教の融合を説いた『有無肺』などの著書がある。天保9年、73歳で死去した。

丸山閑山(1810-1872)
文化7年生まれ。松山藩士。丸山南海の子。通称は市郎兵衛。別号に寛揖、子思、子興、隆、三洞、雪花斎などがある。父の影響で幼いころから学問を好み、画にも秀でていた。蔵澤の甥であり高弟の大高坂南海に筆法を学んで竹画をよくし、蔵澤、南海とともに「墨竹の三名人」と称された。明治5年、64歳で死去した。

丸山南海(不明-1801)
松山藩士。古学派学者で歌人。丸山閑山の父。諱は惟義、通称は大蔵。学問を好み、伊藤仁斎を慕って一意古学を信奉しその唱道につとめた。和歌にも長じ、多くの名歌を残している。享和元年に死去した。

中野雲涛(1821-1908)
文政4年生まれ。松山の人。名は信戴。丸山閑山に師事した。墨竹画の名手として知られているが、蔵澤とは画風が異なっている。明治41年、88歳で死去した。

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文献:伊予の画人、伊予文人墨客略伝




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