紀州三大南画家のひとりである野呂介石(1747-1828)は、鶴亭と池大雅に学び、木村兼葭堂ら関西の文人たちと交流して才能を開花させていった。同じ紀州三大南画家のひとりである一歳年長の桑山玉洲(1746-1799)とは、教えを受けたという説もあるが、お互いに影響しあい高めあう関係だったようである。独学で学び、常に作品に創意を盛り込もうとした玉洲に比べ、介石は真面目で几帳面な性格だったようで、画や画題に多くの情報を書き込んでいる。画に漢詩を引用すればその詩人の名前を記し、中国のスタイルにならった作品にはその画家の名前を冠した。また、名勝を訪れた際には、生で景観を見た時の感動なども丁寧につづっている。日本で最も古い赤富士図を描いた画家とされる介石だが、その「赤富士図」を描いた経緯も、画の中の「賛」に書き込んでいる。
野呂介石(1747-1828)のろ・かいせき
延享4年和歌山城下生まれ。父は町人である野呂方紹。名は隆、俗称は九一郎、幼名は弥助、字は松齢。別号に斑石(班石)、休逸、第五隆、徴湖、十友、矮梅、台岳樵者、四碧斎などがある。若い頃から学問を好み、紀伊藩の儒者・伊藤蘭嵎に学んだ。本格的に画を学ぶようになったのは、14歳で京都に出てからで、『介石画話』などによると、墨竹を好み、中国の絵を見て練習したものの上達しなかったため、黄檗宗の僧・鶴亭に画を学んだとされる。その後、21歳の時に、池大雅に師事した。安永5年に大雅が死去すると、京都や大坂を往来して、木村兼葭堂ら関西の文人たちと交流を重ね、さまざまな影響を受けながら才能を開花させていった。
47歳の時に紀伊藩士となったが、お抱え絵師のような立場ではなかったため、職務の傍ら画を描いた。寛政5年に公務で江戸を訪れる際、その途中ではじめて見た富士山に感銘を受け、さまざまな場所からみた富士山を描いている。享和元年、再び江戸を訪れる機会があり、その際に昇る前の朝日を受けた紅色の富士山をみた。大変感動した介石だったが、はじめてみる現象のためうまく表現できず、江戸に着いてから友人の儒者・柴野栗山(1736-1807)や菅茶山(1748-1827)らにこの景色のことを尋ねた。すると、彼らはすでにこの現象を知っていて、「紅玉芙蓉」と名付けていた人もいたという。
それから20年ほど経った文政4年、介石はその経緯を賛に記して「紅玉芙蓉峰図」と題した赤富士を描いている。この赤富士図は、天保2年頃に描かれた葛飾北斎の赤富士よりも10年ほど早い。また、近年ではさらに5年ほど早く描かれた介石の赤富士図も発見されている。
野呂介于(1777-1855)のろ・かいう
安永6年生まれ。名は隆忠、字は周輔。野呂隆基の子。野呂介石に学び、のちに介石の養子となった。特に山水を得意とした。安政2年、79歳で死去した。
野呂松盧(不明-不明)のり・しょうろ
『阿波画人名鑑』によると野呂介石の孫という。名は饒蔵。美馬郡半田町に住み、門人を教えていたらしい。伝記ははっきりしないが、介石が丈六寺の百川の師匠として阿波に来たと考えられるので、その縁によって松盧が徳島に住むようになったのではないかとされている。
和歌山(8)-画人伝・INDEX
文献:野呂介石-紀州の豊かな山水を描く-、日本の美Ⅴ 富士山、阿波画人名鑑