画人伝・山口 南画・文人画家 中国故事

小田海僊と防長の門人

小田海僊「陶弘景図」

周防国富海に生まれた小田海僊(1785-1862)は、京都に出て四条派の松村呉春に学び、松村景文や岡本豊彦と名声を競ったが、頼山陽から絵に品格がないと指摘されたことから、学問を積み、中国の元・明の古画を独学で研究、南画家として一家をなした。萩藩から一代絵師に召し出され、江戸に出た際には、市河米庵らと親交を結び、米庵所蔵の書画から多くのものを学んだいう。2年後に京都に戻り、同時代の文人、頼山陽、菅茶山、小石元瑞、広瀬旭荘、画家の田能村竹田、浦上春琴らと交友、江戸末期には中林竹洞、貫名海屋らに並ぶ、京都を代表する南画家と称されるようになった。防長の門人としては、大庭学僊、山中月洲、羽様西崖らがいる。

小田海僊(1785-1862)
天明4年佐波郡富海生まれ。下関の新地町で染物屋を営んでいた小田屋仙右衛門の養子。幼名は良平。別号に巨海、南豊、百谷がある。萩藩御用絵師。幼いころから画を好み、22歳の時に下関出身の医師・永富独嘯庵をたよって京都に出て、四条派の松村呉春に学んだのち、頼山陽の影響で、中国の元・明の古画を独学で研究、南画家として一家をなした。京都では多くの文人たちと交友し、特に頼山陽とは、親しく交わり、画の制作のうえでもいろいろな影響を受けた。文政元年、頼山陽らと西遊の旅で出て、日向、薩摩、長崎に滞在、この際に直接中国画を研究したと思われる。文政7年萩藩から一代絵師に召し出され江戸に出た際、市河米庵らと親交を結び、米庵所蔵の書画から多くのものを学んだ。文政9年には藩から京都居住を許され、再び京都で活動、同時代の文人や画家らと交友し、江戸末期の京都を代表する南画家となった。晩年は鴨川の東、聖護院村に画室を構えた。文筆にも優れ『画譜十八描法』『図画題合壁』などの著書がある。文久2年、78歳で死去した。

山中月洲(1826-1896)
文政9年中之町生まれ。畳屋平三郎の子。名は父と同じ平三郎。15歳の時に、当時下関で岸派の画家として名が知られていた江陵岸規について学び、23歳の時に京都に出て、小田海僊に師事した。下関に帰ってからは、北前船問屋などの注文に応じて襖絵などを描いた。明治29年、70歳で死去した。

羽様西崖(1811-1878)
文化8年生まれ。名は師古、字を不欺。萩藩御用絵師。幼いころから画を好み、はじめ出雲の雲鳳に写生を学び、さらに岸派に、そして小田海僊に師事した。山水人物花鳥いずれも得意とした。明治11年、68歳で死去した。

広洞仙(1818-1881)
文政元年生まれ。京都に出て小田海僊に学んだとされる。梅花、鯉の絵を得意とした。明治14年、64歳で死去した。

大野葭洲(不明-1872)
吉敷郡嘉川の人。はじめ菅江嶺に、のちに小田海僊に学んだ。明治5年死去した。

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文献:山口県の美術、防長人物誌、防長の書画展-藩政時代から昭和前期まで




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