画人伝・遠州 南画・文人画家 花鳥画

遠州における椿山門下

椿椿山「歳寒僊品図」

明治に入り、渡辺崋山門下によって培われた南画全盛の気運が、この期に結実したとみられる盛況をみせた。椿椿山(1801-1854)の門下では、吉田柳蹊、大草水雲、望月雲荘の三人が名をなした。

椿椿山(1801-1854)つばき・ちんざん
享和元年江戸生まれ。名は弼、字は篤甫。別号に琢華堂、休庵などがある。父と同じ幕府の槍組同心をつとめた。平山行蔵に師事して長沼流兵学を修め、俳諧、笙にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画ははじめ金子金陵に学び、金陵没後は同門の渡辺崋山に師事し、谷文晁にも学んだ。崋山が蛮社の獄で逮捕され、田原に蟄居となった際には救援につとめ、崋山没後はその子である小華の養育につとめた。門人には渡辺小華、野口幽谷らがいる。嘉永7年、54歳で死去した。

吉田柳蹊(1820-1870)よしだ・りゅうけい
文政3年江戸伝通院生まれ。名は久道、通称は左吾左衛門で、のちに左吾と改めた。別号に暫庵がある。35歳の時に、幕末の徳川幕府の三代官といわれた林鶴梁の下に吏となって磐田郡中泉町を訪れた。その後40歳くらいまでは中泉にいたようだが明確でない部分も多い。慶応の頃から没年までは再び遠江に居住してこの地で没した。師椿山に似て勤勉で、椿山の鶏図の名作を模したけれどもうまくいかず、鶏ばかり500枚も描き、そのためか病を得て没したといわれ、当時の人は「柳蹊は椿山の鶏に食い殺された」と噂したという。明治3年、52歳で死去した。

大草水雲(1817-1874)おおくさ・すいうん
文化14年生まれ。東海道金谷駅の西照寺の住職・木村円海の第二子。幼い頃、父と従兄弟の川崎町静波真宗明照寺第十三世大草良因が早世したので、養嗣子となった。名は亮道、字は皆令、別号に微笑、桂華、煙雨亭主人などがある。16歳の時に西京に行き本山学寮に入り霊往満師として宗乗を学び、30歳の時に帰郷し法職を継いだ。画は西京にいる時に山本梅逸の門に学び、のちに椿椿山に師事した。明治7年12月6日、58歳で死去した。

望月雲荘(1832-1896)もちづき・うんそう
天保3年江戸生まれ。父は勘五郎といい江戸の藩士、母は静岡藩士・望月安兵衛の長女。名は俊。椿椿山に学んで渡辺小華とは寝起きを共にした同輩。明治4年、明治維新の開墾事業に従事するため三方原に移住したが、不馴れな仕事のため、生活的にも生存的にも苦しみ、習いおぼえた絵筆をとって盆燈籠などの絵を描いたところ、小野江忠兵衛に認められ、一度はあきらめた画家として立つこととなった。三方原に住んでいたため「原の雲荘」と呼ばれたが、のちに浜松田町に移り住み一家をなした。しかし東京で名をなすことの思いは強く、明治20年頃に上京するが、失敗に終わり、23年再び浜松に戻り中泉に居を移し後妻を迎え62歳で子供が生まれるが、間もなく再び上京、東京で明治29年、死去した。

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文献:遠州画人伝静岡県の100人展図録




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