画人伝・和歌山 南画・文人画家 人物画 美人画・女性像

狩野派から南画へ・笹川遊原と門人たち

左:笹川遊原「唐美人図」、右:笹川遊原「美人浄瑠璃遊び図」

左:笹川遊原「唐美人図」、右:笹川遊原「美人浄瑠璃遊び図」

狩野派の画人の中には、諸派の画風を取り入れながら画技を模索するものも出てきた。養父である二代笹川遊泉の後を継ぎ、紀伊藩の御絵師をつとめた笹川遊原(1828-1881)は、壮年の頃は純然とした狩野派だったが、その後、俵屋宗達の画風を慕い、さらに南宗画の筆法を学んだ。遊原の門から出た筑紫翠雲も、諸派の長所を取り入れながら研鑚にはげみ、ついに南画で一家をなした。

笹川遊原(1828-1881)ささがわ・ゆうげん
文政11年生まれ。名は昌信、通称は蕭々齋、別号に瑟がある。祖先は丹波笹山で、養父遊泉の後を受けて紀伊藩の御絵師となった。壮年の頃は純然とした狩野派だったが、中年になるとおおいに感じるところがあって、光琳派に着眼し、俵屋宗達の画風を慕い、没骨の用墨法を研究して取り入れた。また、元治慶應の頃からは、南宗画の筆法を学び、意の欲するままに縦横に筆を運び描いた。筑紫翠雲、榎本遊谷、岡本遊汀らはこの門から出た。明治14年、54歳で死去した。

筑紫翠雲(1837-1905)ちくし・すいうん
天保8年和歌山生まれ。名は廣寧、通称は熊次郎。別号に遊岱、霞谷などがある。伊藤周峰の門に遊び、経史を修め、堀端養恒について狩野派の画法を学んだ。のちに笹川遊原について更に画法を学び、それより諸派の長所を取り入れながら、岩瀬半夢、諏訪蕉雨らと研鑚にはげみ、ついに南画で一家をなした。明治38年死去。

榎本遊谷(1848-1923)えのもと・ゆうこく
嘉永元年和歌山生まれ。名は信敬、字は士行、通称は貫一。別号に醒石がある。少年の頃に笹川遊原について狩野派を学び、のちについにこれをもって身を立てた。大正12年、76歳で死去した。

岡本遊汀(1854-1914)おかもと・ゆうてい
安政元年和歌山生まれ。名は支樹、字は黄白、通称は季四郎。別号に煙嶺、不識庵などがある。紀伊藩士・岡本一郎の四男。笹川遊原、筑紫翠雲に師事して南宗画をよくした。のちに大阪博物場に勤めた。大正3年、61歳で死去した。

松廣松琴(不明-1891)まつひろ・しょうきん
名は禎。幼少の頃から画を好み、明治14、5年に筑紫翠雲に師事した。明治24年、21歳で死去した。

田中五峰(1861-1929)たなか・ごほう
文久元年生まれ。名は又一郎。田中芳助の子。若くして筑紫翠雲に学んだ。昭和4年、59歳で死去した。

和歌山(5)画人伝・INDEX

文献:紀州郷土藝術家小傳




You may also like

おすすめ記事

1

長谷川等伯 国宝「松林図屏風」東京国立博物館蔵 長谷川等伯(1539-1610)は、能登国七尾(現在の石川県七尾市)の能登七尾城主畠山氏の家臣・奥村家に生まれ、のちに縁戚で染物業を営む長谷川家の養子と ...

2

田中一村「初夏の海に赤翡翠」(アカショウビン)(部分) 昭和59年(1984)、田中一村(1908-1977)が奄美大島で没して7年後、NHK教育テレビ「日曜美術館」で「黒潮の画譜~異端の画家・田中一 ...

3

横山大観「秩父霊峰春暁」宮内庁三の丸尚蔵館蔵 横山大観(1868-1958)は、明治元年水戸藩士の子として現在の茨城県水戸市に生まれた。10歳の時に一家で上京し、湯島小学校に転入、つづいて東京府小学校 ...

4

北野恒富「暖か」滋賀県立美術館蔵 北野恒富(1880-1947)は、金沢市に生まれ、小学校卒業後に新聞の版下を彫る彫刻師をしていたが、画家を志して17歳の時に大阪に出て、金沢出身で歌川派の流れを汲む浮 ...

5

雪舟「恵可断臂図」(重文) 岡山の画家として最初に名前が出るのは、室町水墨画壇の最高峰に位置する雪舟等楊(1420-1506)である。狩野永納によって編纂された『本朝画史』によると、雪舟の生誕地は備中 ...

-画人伝・和歌山, 南画・文人画家, 人物画, 美人画・女性像

© 2024 UAG美術家研究所 Powered by AFFINGER5