画人伝・和歌山 狩野派 山水・真景 花鳥画

狩野興以にはじまる紀伊狩野の系譜

狩野興以「花鳥図屏風」

紀伊国における狩野派の系譜は、狩野光信に師事した狩野興以(不明-1636)がはじまりとされる。興以は師である光信の没後、光信の弟・孝信の子である探幽、尚信、安信の三兄弟を教育し大成させたことにより、狩野派の中でも大きな影響力を持つ存在となった。晩年には紀伊徳川家に仕え、それを長男である興甫が継ぎ、紀伊狩野家の初代となった。また、興以の二男・興也は水戸徳川家に、三男の興之は尾張徳川家に仕え、三兄弟が徳川御三家に仕えたこととなる。

狩野興以(1569-1636)かのう・こうい
名は定信、字は中里。下野足利の人。「興意」と表記されることもある。狩野光信に師事し高弟とされた。また、牧谿、雪舟の画風を慕い狩野の画に水墨の伝統を取り入れたりもした。光信没後は、光信の甥にあたる探幽、尚信、安信の三兄弟の後見役として彼らを教育した。のちに三人とも大成したのは、興以によるところが大きいとされ、狩野の名を名乗ることを許され、のちに法橋にも叙された。

狩野興甫「山水図」

狩野興甫「山水図」

狩野興甫(不明-1671)かのう・こうほ
名は顕信、字は興之、はじめは彌右衛門と称し、朝雲と号した。狩野興以の長男。生まれは武蔵国で、その後山城国小川村に住んだ。紀伊藩初代藩主の徳川頼宣に登用され紀伊狩野家の初代となった。寛文11年死去。

狩野興益(不明-1705)かのう・こうえき
名は彌右衛門。狩野興甫の長男。父の跡を継いで紀伊狩野家の二代となり紀伊藩に仕えた。二代藩主の光貞は極めて画を好み、興益が師範を勤めたという。寛永2年死去。

狩野興伯(不明-1707)かのう・こうはく
名は宗信。興益の子。父の業を継いで紀伊藩に仕え、紀伊狩野家の三代となった。宝永4年死去。以後の紀伊狩野家は、六代興圓が若くして病死し、継ぐものがなく家断絶の危機となったが、天明元年に榮興が龍名、ついで八代に興元、九代に興元の養子である興永が継いだとされる。九代の興永は野際白雪らと交遊した。

並川甫雲(初代)(不明-不明)なみかわ・ほうん
名は利孝、通称は權右衛門。狩野興甫の門人。師の興甫の不慮の事に坐した際に、昼夜を問わず側を離れず世話をして、当時の美談となった。のちに狩野常信に師事し、益々研鑚を積んだ。

並川甫雲(2代)(不明-1748)なみかわ・ほうん
名は常孝、はじめ卜雲と号して、のちに二代目甫雲と改めた。父の跡目を継いで藩に仕えた。明暦年中より江戸麻布谷町に住み、享保6年に隠居して子・祐慶が後を継いだ。以後代々藩の御絵師を勤め江戸に住んだが、維新前に甫仙で系譜は止まった。

並川甫仙(不明-不明)なみかわ・ほせん
紀州藩狩野派の画家で、甫雲の後継者だとみられる。殿中の襖などに描いた画は粉本となって伝わっているが、詳細は不明。

和歌山(1)画人伝・INDEX

文献:紀州郷土藝術家小傳




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