画人伝・熊本 画僧・武人 花鳥画

宮本武蔵ら余技の画人

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伝宮本武蔵「芦雁図屏風」

肥後熊本藩をおさめていた加藤家や細川家は、全国的にも有名な大名であり、文化的な素養も備えていた。そのため、著名な学者や兵法者を周辺に集め、また自然に集まりもした。加藤家における文英清韓、那波活所、細川家における沢庵宗彭、宮本武蔵、稲富祐直、両家に仕えた日収秋澗らはその代表的な人物である。そのうちで画をよくしたのは宮本武蔵(1582-1645)と日収秋澗(1579-1650)である。

剣豪で知られる宮本武蔵は、寛永17年(1640)に熊本を訪れ、筆頭家老・長岡佐渡守興長の斡旋によって合力米三百石を賜り、細川忠利の客分として遇された。『兵法三十五ケ条』『五輪書』『独行道』などの著述は、晩年熊本の地で書かれたとみられ、重要文化財《鵜図》《芦雁図屏風》などの水墨画もこのころ描かれたものと考えられている。日収秋澗は、能登出身の日蓮宗の僧侶で、元和6年(1620)に熊本を訪れ、常光寺に入り同寺を再興した。加藤家からも細川家からも厚遇され、教学の余技として画をよくした。

ほかに、内乱を避け中国から日本に亡命してきた中国人・陳柱中も余技で画をよくした。当時、日本に亡命する中国人は多く、学問や医術など特殊な能力や技術をもって諸大名に仕えたものも少なくなかった。嘉永13年(1636)に矢野三郎兵衛吉重が、「唐人絵かき日二官」の細川家への奉公を願い出た記録もある。しかし、かれら中国人画家たちによる熊本絵画への影響はほとんど残されておらず、明清画の影響が出てくるのは、文化文政期のことである。

宮本武蔵(1582?-1645)
播磨国出身。姓は新免、名は玄信、二天と号した。二天一流の創始者。養子の伊織は小倉・小笠原藩の家老。寛永17年に熊本を訪れ、筆頭家老・長岡佐渡守興長の斡旋によって合力米三百石を賜り、熊本城東部に隣接する千葉城に屋敷が与えられるなど、細川忠利の客分として処遇された。『兵法三十五ケ条』『五輪書』『独行道』なども熊本区の地で著されたものとされる。また、重要文化財《鵜図》《芦雁図屏風》などの水墨画もこのころ描かれたものと考えられている。最晩年には病身の武蔵を長岡佐渡守興長や細川光尚が気遣ったという。正保2年、64歳で死去した。(62歳説もある)

日収秋澗(1579-1650)
天正7年生まれ。能登出身の日蓮宗の僧侶。妙永寺(旧常光寺)三世。院号は知雄院、雅号は一鴎、睡心、図南堂など。幼いころから僧籍に入り、16歳で上京して修行。元和6年、42歳の時に本妙寺開山日真の招きで熊本を訪れ、加藤清正の生母の菩提寺である常光寺に住んだ。朱子学に精通し、細川家に重用され、肥後における程朱学の祖と称された。教学の余暇に画をよくした。慶安3年、72歳で死去した。

陳柱中(1597-1676)
慶長2年生まれ。名は砥、字は柱中。明の福建の人。『肥后藩雪舟流画家傳』によると、30余歳にして内乱を避けて日本に亡命、長崎にとどまっていた時に、細川忠利に仕えていた医師の王穆門の進言によって忠利に召されたとある。延宝4年、80歳で死去した。

文献:熊本三館共同企画 宮本武蔵展、肥後の近世絵画、細川藩御用絵師・矢野派、肥後書画名鑑

宮本武蔵 全8巻合本完全版
宮本武蔵研究会







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