画人伝・鹿児島 狩野派 中国故事

明治期に活躍した鹿児島の狩野派・江口暁帆

江口暁帆「唐夫人図」

幕末の鹿児島に生まれ、少年期に狩野派を学んだ江口暁帆(1839-1921)もまた、時代の大きな変遷期にあって、伝統と変革の間で揺れ動きながら新しい表現を模索した画家のひとりである。暁帆の作品には、伝統的な狩野派の画風を伝えるものから、西洋風の写実的感覚を盛り込んだものまで、様々な模索の跡がみえる。

明治18年には、フェノロサが日本美術に新風を吹き込もうとして結成した美術団体・鑑画会の第1回展に出品している。暁帆の作品が、狩野派の基礎を備えながら西洋写実絵画の表現にも通じていたことから、出品作家に選ばれたと考えられる。

明治22年に第3回内国勧業博覧会に出品された「唐夫人図」(掲載作品)は、中国に伝わる親孝行の故事「二十四孝」の一つを題材とし、歯が弱くなって噛めなくなった姑のために自らの乳を吸わせて養った嫁の姿を描いている。二十四孝は狩野派がよく描いた題材だが、肌をあらわにした女性表現は珍しく、そこには近世写生派や西洋絵画の影響がみられる。

江口暁帆(1839-1921)
天保10年鹿児島市生まれ。江口彦太郎の二男。本名は親雄。少年期に狩野派の絵師・佐多椿斎に学んだ。明治2年、鹿児島県十一等絵師助となり、明治5年鹿児島県学校三等教授図画掛を命じられた。「薩隅日三州実測図」を模写して報奨金を受けた。東京府十四等に出任後、太政官正院地誌課十三等に出任。明治6年、同じく十二等出任。翌年、内務省地理寮地誌課十二等出任。明治8年、同じく十一等出任。内務省地理寮地誌課が太政官正院修史局に吸収され、同局の十一等出任、地誌掛。明治14年測量御用として小笠原島出張を命じられ、翌年帰京。明治17年第2回内国絵画共進会に出品。明治18年第1回鑑画会に出品。明治21年頃、神戸市に在住。明治23年第3回内国勧業博覧会に出品。明治36年第5回内国勧業博覧会に出品。後半生は鹿児島市西田に住んだ。大正10年、83歳で死去した。

鹿児島(28)-画人伝・INDEX

文献:明治の狩野派 江口暁帆展、美の先人たち 薩摩画壇四百年の流れ、かごしま文化の表情-絵画編




You may also like

おすすめ記事

1

長谷川等伯 国宝「松林図屏風」東京国立博物館蔵 長谷川等伯(1539-1610)は、能登国七尾(現在の石川県七尾市)の能登七尾城主畠山氏の家臣・奥村家に生まれ、のちに縁戚で染物業を営む長谷川家の養子と ...

2

田中一村「初夏の海に赤翡翠」(アカショウビン)(部分) 昭和59年(1984)、田中一村(1908-1977)が奄美大島で没して7年後、NHK教育テレビ「日曜美術館」で「黒潮の画譜~異端の画家・田中一 ...

3

横山大観「秩父霊峰春暁」宮内庁三の丸尚蔵館蔵 横山大観(1868-1958)は、明治元年水戸藩士の子として現在の茨城県水戸市に生まれた。10歳の時に一家で上京し、湯島小学校に転入、つづいて東京府小学校 ...

4

北野恒富「暖か」滋賀県立美術館蔵 北野恒富(1880-1947)は、金沢市に生まれ、小学校卒業後に新聞の版下を彫る彫刻師をしていたが、画家を志して17歳の時に大阪に出て、金沢出身で歌川派の流れを汲む浮 ...

5

雪舟「恵可断臂図」(重文) 岡山の画家として最初に名前が出るのは、室町水墨画壇の最高峰に位置する雪舟等楊(1420-1506)である。狩野永納によって編纂された『本朝画史』によると、雪舟の生誕地は備中 ...

-画人伝・鹿児島, 狩野派, 中国故事

© 2024 UAG美術家研究所 Powered by AFFINGER5