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江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま東北地方を探索中。

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仙台四大画家のひとり・四条派の東東洋

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東東洋「虎図」

江戸後期に活躍した仙台地方出身の画家のうち、東東洋、小池曲江、菅井梅関、菊田伊洲の4人は、仙台四大画家と称された。これは、明治時代に仙台に在任した裁判官で、南画家としても知られる川村雨谷の命名によるもので、4人が画家たちが、それぞれ四条派、南蘋派、南画、狩野派と、異なる画系だったことも選択上の重要な指標となったと思われる。

そのひとりである四条派の東東洋は、宝暦5年、狩野派の絵をよくしていた岩淵元方の長男として石越(現在の登米市)に生まれ、金成(現在の栗原市金成)に移り住んだ。本格的に画を学び始めたのは14、5歳の頃で、仙台地方に滞在していた深川水場町狩野家三代目で幕府の御用絵師をつとめていた狩野梅笑に手ほどきを受けた。その後、18歳で梅笑の養子となって江戸に出て、さらに19、20歳の頃に京都に上った。

当時の京都は円山応挙の円山派、その弟子・呉春の四条派が全盛を迎えており、東洋は特に呉春と親交を重ねながら画技を深めた。さらに20代の終わりから30代にかけては西遊し、長崎では中国人画家・方西園に学んだとされる。各地を巡って京都に帰ってきた頃には狩野派を離れ、四条派の画家として立つこととなり、寛政年間には法眼に叙せられた。

その活躍は、やがて仙台藩の知るところとなり、42歳の時に藩の出入司支配番外士として藩の画工を命じられた。以後も藩の仕事に携わったが、拠点は京都にしており、東洋が京都を離れ仙台に戻ったのは70歳になってからだった。名声を得て帰郷した東洋のもとには、多くの入門希望者が訪れ、門人は数百人を数えたという。

東東洋(1755-1839)あずま・とうよう
宝暦5年生まれ。名は洋、字は大洋、幼名は俊太郎、のちに儀蔵と改めた。別号に玉峨、白鹿園がある。画を狩野梅笑に学び、のちに梅笑の養子となって狩野家を継いだ。京都時代には池大雅、円山応挙らと親交があり、長崎においては方西園に師事した。朝廷の障壁画の制作で、法眼に叙されたが、まもなく狩野家を辞した。70歳で仙台に戻り良覚院丁に居を構えた。主な門人としては、斑目東雄、川村春洋、伊藤東駿、佐藤東岸らがいる。また、京都時代の弟子に鈴木南嶺らがいる。天保10年、85歳で死去した。

東東寅(1793-1853)あずま・とういん
寛政5年生まれ。東東洋の長男。字は木星、通称は俊治。別号に長月がある。木挽町狩野家の照信に学び、法橋に叙されたが、仙台には戻らなかった。生涯独身のため子はなかった。嘉永6年、61歳で死去した。

東東莱(1808-1871)あずま・とうらい
文化5年生まれ。東東洋の二男。名は五俊、字は子龍。別号に俊翁、江山画屋がある。東洋のあとを継いで仙台藩画員となり、法橋に叙せられた。明治4年、65歳で死去した。

伊藤東駿(不明-1839)いとう・とうしゅん
仙台市福田町生まれ。東東洋の門人。通称は東順。別号に霞汀、霞村、旭光がある。法橋に叙せられた。養賢堂上殿の間の障壁画を描いた。天保10年死去した。

佐藤東岸(1785-1864)さとう・とうがん
天明5年石越生まれ。名は道憲、勇治郎と称した。文政7年京都で東東洋の門に入り、3年後に帰郷した。田村右京に仕え領内の絵図係を命じられたとされる。元治元年、80歳で死去した。

川村春洋(1800-1876)かわむら・しゅんよう
寛政12年白石生まれ。名は世珪。画を東東洋に学び、法橋に叙せられた。藤堂藩の画員となった。明治維新後、郷里に帰り、画塾を開いて子弟の教育にあたった。明治9年、77歳で死去した。

文献:仙台四大画家、仙台の絵師・東東洋、仙台画人伝、仙台市史通史編4(近世2)、仙台市史特別編3(美術工芸)、東北歴史博物館美術工芸資料図録、 仙台市博物館館蔵名品図録、福島美術館優品図録

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