画人伝・鳥取 狩野派 中国故事

根本幽峨と鳥取の門人

根本幽峨「琴棋書画図」

鳥取城下の商家に生まれた根本幽峨(1824-1866)は、江戸に出て沖一峨の門人となり狩野派の画法を修め、藩の御用絵師となった。多数の模本を残すとともに屏風や掛軸など多くの作品を描き、亀井琴嶺(不明-不明)、河田翠涯(1822-1900)、藤岡神山(1825-不明)ら郷土で活躍する絵師を育てた。弟で門人の根本雪峨(1828-1901)は、幽峨の跡を継いで狩野派の画を描き、明治年間には京都府画学校で教鞭をとった。

根本幽峨(1824-1866)
文政7年生まれ。鳥取城下の商家・砂田屋の長男とされる。幼名は重三郎。別号に鷲峯がある。幼いころから画を好み、凧や幟に武者絵を描いて売っていたという。長じて江戸に出て沖一峨の内弟子となった。江戸では一峨のもとで絵画修行に励むとともに藩の御用の絵画制作に従事していた。嘉永7年に絵画修行の年限が満ちたのでいったん帰郷し、後にまた江戸に出た。安政5年に正式に藩の御用絵師となった。元治元年には沖剛介が起こした堀庄次郎暗殺事件のため一時断絶となっていた沖九皐一家を預かり、慶応2年に家名が再興されるまで沖家の世話をした。師の一峨と同様に各画法に通じ、狩野派の伝統手法にのっとった山水図や各派を折衷した作品を残した。幕末から明治に鳥取で活躍した亀井琴嶺、河田翠涯、藤岡神山ら、鳥取で多くの門弟を育てた。慶応2年、43歳で死去した。

亀井琴嶺(不明-不明)
八頭郡米岡の人。根本幽峨の門人。奇人にして雪舟の筆を慕っていたと伝わる。

河田翠涯(1822-1900)
鳥取市馬場町に住んでいた。根本幽峨の門人。山水人物を得意とした。茶もよくした。

藤岡神山(1825-不明)
鳥取市下臺町庚申堂横手に住んでいた。根本幽峨の門人。

根本雪峨(1828-1901)
文政11年生まれ。根本幽峨の弟で門人。幽峨の養子となって跡を継いだ。幽峨のほか、沖一峨や菊田伊洲に学んだ。藩邸新築の際には師とともに制作にあたり、明治2年には因伯隠三州の地図製作に携わった。京都府画学校の教授をつとめた。明治34年、73歳で死去した。

鳥取(2)-画人伝・INDEX

文献:藩政時代の絵師たち、根本幽峨の伝記と画業、鳥取縣書画百藝名人集




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