画人伝・滋賀 狩野派 動物画

六芸に通じた才人で蕉門十哲に数えられた森川許六

伝・森川許六「牡丹唐獅子図」(部分)

伝・森川許六「牡丹唐獅子図」(部分)

江戸時代の早い時期に活躍した彦根の画人としては、森川許六(1656-1715)がいる。許六は彦根藩士の子として彦根城下に生まれ、若いころから漢詩を学び、画は江戸の中橋狩野家の狩野安信に学んだとされる。江戸詰の時に晩年の松尾芭蕉に入門し、蕉門十哲に数えられるほどになり、芭蕉に画を教え、芭蕉の肖像画も描いている。

許六は、古代中国で士以上の者が学修すべきとされた、礼(礼節)、楽(音楽)、射(弓術)、御(馬術)、書(文学)、数(算数)の六芸に通じた多芸の才人で、師の芭蕉から「許六」の号が授けられた。許六が江戸での勤務を終えて彦根に帰る際には、それを惜しんだ芭蕉から「許六離別の詞」と俳諧の奥伝書を贈られたという。

許六の書画は、彦根市平田町にある明照寺に伝えられ、古沢町にある井伊家の菩提寺・龍潭寺には、許六作と伝わっている牡丹唐獅子図をはじめとした56面に及ぶ襖絵があり、彦根市の文化財に指定されている。

許六と同時期に彦根藩の御用をつとめていた絵師としては、大形藤兵衛(不明-1675)がいる。藤兵衛は、判明している最も古い彦根藩御用絵師で、幕府の御用をつとめ、狩野探幽と同じ所にいて活躍していたといい、徳川将軍家の上洛の絵図と屏風、彦根城鐘丸御守殿の笹の間の障壁画を描いた。

藤兵衛の養子で二代を継いだ幽心は、禁裏絵所の狩野流弥に学び、幽心の養子で三代となった養川は木挽町の狩野常信に学んだとされる。二代幽心と三代養川は6年間江戸に滞在して国絵図の制作をした。四代は養川の実子の藤十郎が継いだが、延享4年に絵師としての活動をやめている。

森川許六(1656-1715)もりかわ・きょりく
明暦2年彦根生まれ。近江彦根藩士。名は百仲、字は羽官、通称は伍助。別号に五老井、風狂堂などがある。晩年は剃髪して菊阿仏と号した。若いころから漢詩を学び、画は狩野安信に学んだ。江戸勤務の時に松尾芭蕉に入門し、蕉門十哲のひとりに数えられた。正徳5年、60歳で死去した。

滋賀(04)-画人伝・INDEX

文献:彦根ゆかりの画人、近江の画人たち




You may also like

おすすめ記事

1

長谷川等伯 国宝「松林図屏風」東京国立博物館蔵 長谷川等伯(1539-1610)は、能登国七尾(現在の石川県七尾市)の能登七尾城主畠山氏の家臣・奥村家に生まれ、のちに縁戚で染物業を営む長谷川家の養子と ...

2

田中一村「初夏の海に赤翡翠」(アカショウビン)(部分) 昭和59年(1984)、田中一村(1908-1977)が奄美大島で没して7年後、NHK教育テレビ「日曜美術館」で「黒潮の画譜~異端の画家・田中一 ...

3

横山大観「秩父霊峰春暁」宮内庁三の丸尚蔵館蔵 横山大観(1868-1958)は、明治元年水戸藩士の子として現在の茨城県水戸市に生まれた。10歳の時に一家で上京し、湯島小学校に転入、つづいて東京府小学校 ...

4

北野恒富「暖か」滋賀県立美術館蔵 北野恒富(1880-1947)は、金沢市に生まれ、小学校卒業後に新聞の版下を彫る彫刻師をしていたが、画家を志して17歳の時に大阪に出て、金沢出身で歌川派の流れを汲む浮 ...

5

雪舟「恵可断臂図」(重文) 岡山の画家として最初に名前が出るのは、室町水墨画壇の最高峰に位置する雪舟等楊(1420-1506)である。狩野永納によって編纂された『本朝画史』によると、雪舟の生誕地は備中 ...

-画人伝・滋賀, 狩野派, 動物画

© 2024 UAG美術家研究所 Powered by AFFINGER5