画人伝・尾張 南画・文人画家

南画の衰退、そして近代日本画へ

近世尾張画壇の特徴としては、画を学ぶ者の多くがその場を京都に求めたことにある。牧墨僊のように江戸詰めの尾張藩士は江戸で師を見出すことはあったが、彭城百川、中林竹洞山本梅逸田中訥言ら著名な画家たちのほとんどが京都を意識し、京都に活躍の場を見出そうとした。ただ、尾張画壇にとって幸いなことは、京都で活躍した画家たちの多くが尾張の地に戻り、後進にその画法を伝えたことである。

また、この時代はひとつの流派にこだわらず、各派の画法や精神性を取り入れてながら、独自の制作活動を展開したものが目立った。様々な流派が受け入れられ、復古大和絵、四条派、浮世絵などで代表画家を生みだしたが、人々の間に根をおろし、人気の主流にあったのは南画だった。技術の巧拙にかかわらず気持ちさえあれば描くことができるという南画の基本的な性格が、多くの人に支持されたのかもしれない。

その尾張南画も、中林竹洞、山本梅逸らの登場で全盛を迎え、それをピークにやがて衰退していった。後に続くものたちが、竹洞、梅逸の個性の枠を越えて発展させることができず、時代の流れに乗りきれなかったことも停滞の要因といえる。そして、その弟子たちも明治に入ると次々と世を去っていった。

その頃、目立った動きをしていたのが、半田地方を拠点に独自の南画活動を展開し、明治以降に始まった全国の展覧会に多くの入選者を送り込んだ山本梅荘を中心とする一派だった。しかし、時代的な要求はすでに南画からは遠ざかり、人々の興味は東洋よりも西洋へと移り、南画を理解するのに必要な漢詩文の素養を持つものが少なくなってきたことも要因のひとつとなり、尾張南画はやがて大きな時代の波に飲まれるようにその姿を失っていき、近代日本画へと移り変わっていくことになる。

山本梅荘(1846-1921)やまもと・ばいそう
弘化3年8月碧海郡新川鶴ケ崎村に生まれ、のちに半田に出た。通称は倉蔵。別号に半村、半邨、楳荘がある。書画骨董を商う養父公平の特殊教育により独修し、のちに京都に出て貫名海屋に学び、さらに三谷雪えんに従って画を修めた。帰郷後、元明清の古蹟を臨模し、王石谷に私淑し、山水を最も得意とした。明治15年の第一回内国絵画共進会で金牌を受け、南宗水墨画では梅荘に及ぶものがないといわれた。晩年には彩色の花鳥画も多く描き、大正元年には中部からはじめて文展委員となり、3年から審査員をつとめ、旧派の代表だった。大正10年2月、76歳で死去した。

竹内梅嶺(1849-1915)たけうち・ばいれい
嘉永2年10月知多郡阿久比村草木生まれ。竹内伊勢守の長男。名は浦弌。山本梅荘に師事した。神職で知多郡神職会理事をつとめた。大正4年12月、67歳で死去した。

中根雪窓(1849-1924)なかね・せっそう
嘉永2年3月額田郡岡崎町生まれ。名は正貞、字は子寧、通称は甚太郎。別号に松北、拙叟がある。経史を曽我耐軒に学び、画をはじめ谷口靄山につき、のちに山本梅荘に師事した。各地の山川を巡り、山水を得意とした。帝国絵画協会・中央南宗画会の会員で、俳画もよしく、茶をたしなんだ。岡崎町長をはじめ公職を歴任した。大正13年10月、76歳で死去した。

脇田水石(1860-1931)わきた・すいせき
万延元年葉栗郡極楽寺村生まれ。名は重三郎・謹、字は子洲。はじめ村田香谷に学び、のちに山本梅荘につき、さらに大坂の森琴石に師事した。南宗画を描けば当地方随一と称せられた。明治41年に浅井町長となり3年間町政に参与した。昭和16年、72歳で死去した。

岩田心斎(1860-1937)いわた・しんさい
万延元年葉栗郡高田村生まれ。別号に石斎がある。森琴石と山本梅荘に師事した。とくに四季の山水を得意とした。昭和12年、78歳で死去した。

沢梅谷(1861-1928)さわ・ばいこく
文久元年9月碧海郡刈谷生まれ。刈谷藩大監察・沢健次郎俊盛の子。名は理、通称は理喜三郎、字は黄中。幼い頃から漢籍を学び、山本梅荘の門にはいって南画を学んだ。明清の古画の風景を模写し、四方を遊歴して風景を写生した。のちに京都の滝和亭に花鳥の描法を学び、新機軸を打ち出した。知多郡の小学校で教鞭をとり、また私塾を開いて門生を教育した。昭和3年7月、68歳で死去した。

神谷石洞(1864-1936)かみや・せきどう
元治元年10月碧海郡冨士松村逢見生まれ。庄屋・神谷又蔵の長男。名は有馬之助、山本梅荘に師事し、山水を得意とした。昭和11年2月、73歳で死去した。

牛田松南(1870-1945)うしだ・しょうなん
明治3年1月知多郡豊浜町山田生まれ。牛田与兵衛の三男。名は円空。幼い頃に僧籍に入り、かたわら山本梅荘に画を学んだ。仏門修業のため大阪に移ったが、還俗して金沢に長く住み、画家として一本立ちができるようになったので東京に出た。戦況が厳しくなり、大正14年頃一時富山に疎開。そこで戦災、負傷の悪化が原因で、昭和20年、75歳で死去した。

山本石荘(1872-1886)やまもと・せきそう
明治5年4月知多郡半田町生まれ。名は謙、字は自牧、通称は一蔵。別号に石叟がある。山本梅荘の長男。幼い頃から父に従い画法を学んだ。また、父に伴い諸国を遊歴して風景を描写、各展覧会に出品して受賞した。さらに修練のため門下生に蜜画を臨写させ、その純益を公共施設に寄付して社会に貢献した。昭和19年3月、72歳で死去した。

山本梅英(不明-不明)やまもと・ばいえい
知多郡半田生まれ。山本梅荘の娘。父から南宗画を学んだ。

平井梅嵓(1873-1940)ひらい・ばいがん
明治6年5月知多郡阿久比村草木生まれ。通称は喜間太。幼い頃から画を好み、山本梅荘に学んだ。とくに山水を得意とした。明治39年日本美術協会に<松渓山水>の図を出品して三等褒賞を受けたほか、各展覧会で受賞、帝国絵画協会会員として活躍した。写真、盆栽もたしなんだ。昭和15年5月、67歳で死去した。

山本香雲(1874-1950)やまもと・こううん
明治7年8月29日知多郡半田町生まれ。名は卓、字は子立、通称は二六。山本梅荘の二男。幼い頃から父に従い画法を学んだ。その筆致は、ほとんど父子の区別がつかないくらい似ていた。山水、花鳥を得意とし、博覧会・共進会などで銅牌、賞状を受け、宮内省御用品も2回なった。多くの門人を育成いた。昭和25年2月、77歳で死去した。

野倉鉄真(1876-1961)のくら・てっしん
明治9年1月名古屋金沢町生まれ。名は成忠。別号に天龍山人がある。8歳で仏門に入り、かたわら画を志し、はじめ盛田南郊について唐画を学び、のちに山本梅荘、山本石荘に師事して南宗画を修めた。各地の展覧会で受賞した。のちに知多郡小鈴谷の玉珠院住職となり、仏事のかたわら帝国絵画協会会員として活動した。昭和36年7月、86歳で死去した。

早川梅亭(1878-1961)はやかわ・ばいてい
明治11年11月知多郡高横須賀村生まれ。加藤小助の三男で、八幡村中村の早川家の養子となった。名は丈太郎。山本梅荘に師事し、のちに石荘についた。各展覧会で受賞し、宮内庁御買上もあった。大正中頃に八幡村の村長をつとめた。昭和36年10月9日、83歳で死去した。

平松梅洲(1884-1914)ひらまつ・ばいしゅう
明治17年4月1日知多郡八幡村中島生まれ。名は三郎。生まれつき片目が見えなかったが、少年の頃から画を志し、山本梅荘に学んだ。大正3年8月、31歳で死去した。

簗瀬梅畝(1884-1920)やなせ・ばいほ
明治17年碧海郡刈谷生まれ。名は祐。はじめ沢梅谷に学び、のちに山本梅荘の門に入り石荘の教えを受けた。将来を期待されながらも、大正9年2月3日、37歳で死去した。

竹内梅汀(1884-不明)たけうち・ばいてい
明治17年知多郡東浦生まれ。名は志き。名古屋の私立清流女学校を卒業後、山本梅荘に学び、山水を得意とした。

稲吉雲洞(1888-1954)いなよし・ばいどう
明治21年3月幡豆郡一色村味浜生まれ。稲吉吉蔵の長男。名は佐市(才知)。別号に大雲、大雲洞がある。山本梅荘に師事して南画を修め、江南画塾を主宰して、中央画壇で活躍した画家を育てた。明治26年に寄進された豊川稲荷の大提灯の絵を描いた。和歌、俳句もたしなんだ。昭和29年8月、67歳で死去した。

山内半畝(1890-1950)やまうち・はんぽ
明治23年知多郡半田町生まれ。印刷業・山内悦次郎の子。名は専一師。中川南巌に書を学び、画ははじめ山本梅荘の門で学んだが、梅荘没後は京都の池田桂仙の門に入った。父の死後は家業をつぎ、画業と両立させた。昭和25年4月8日、60歳で死去した。

高須半湖(1895-不明)たかす・はんこ
明治28年6月幡豆郡一色村開正生まれ。名は英一。別号に半香がある。山本梅荘の門に入り、石荘、香雲の指導を受けた。のちに東京に出て松林桂月の塾に学んだ。御大典記念全国絵画展覧会で褒状を受けるなど各展覧会で受賞した。

高須白雲(1900-不明)たかす・はくうん
明治33年幡豆郡一色村生まれ。別号に白玉、耕心艸堂がある。山本梅荘について学び、のちに京都の水田竹圃に師事した。日本南画院同人として活動した。

芳野宗石(1902-1965)よしの・そうせき
明治35年碧海郡和会村田端生まれ。弘願寺一五世心海の四男。名は智海。はじめ四条派の画を学び、のちに山本梅荘に師事した。梅荘没後は京都の水田竹圃の門に入り、新南画の樹立を目指して精進した。戦後は大きく変わった日本画の流れに添って南画を去り、新しい日展系の画へと転換して、池田遙邨の特別指導を受け、日展に数回入選、名声も高まり、京都美術展、関西美術展などに出品した。昭和40年2月25日、64歳で死去した。

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文献:愛知画家名鑑




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