画人伝・長野 版画家 風景画

創作版画運動の普及と信州の版画家

山口進「五月の上高地」

山口進「五月の上高地」

山本鼎らが提唱した「自画・自刻・自摺」の創作版画運動は、大正に入って広く普及するようになる。その動きを受けて織田一磨が山本鼎に働きかけ、大正7年に「日本創作版画協会」が結成され、寺崎武男、戸張孤雁、永瀬義郎平塚運一、前川千帆らが会員として参加、のちに恩地孝四郎、川上澄生、田辺至らも加わった。

第1回展は、大正8年1月に日本橋三越で開催され、出品者は、発起人の織田一磨、竹腰健造、寺崎武男、戸張孤雁、山本鼎のほか、石井鶴三、江野口蘆風、恩地孝四郎、喜多武四郎、小泉癸巳男、永瀬義郎、広島新太郎、藤木喜久麿、藤森静雄、逸見享、前川千帆、峰島尚志、森谷利喜雄、森山収治(北沢収治)、吉田ゆう子、萬鉄五郎、渡辺進、ウェストリー・マニングと、すでに故人となっていた香山小鳥田中恭吉の25名だった。

大正11年頃には、山本鼎が設立した農民美術研究所に版画科が設けられ、信州をはじめ各地で版画講習会が開催され、版画科講師として永瀬義郎らが参加し、平塚運一も木材工芸科として講師のひとりとして加わった。

大正15年、上田市大屋の第1回夏期工芸学校でも版画講習が行なわれ、この時に調査部員だった渡辺進と版画科研究員の中西義男が山口進とともに昭和3年、日本創作版画協会会員となり、その後、山本鼎の意志を継ぐかたちで活動した。

昭和6年、日本創作版画協会は、岡田三郎助らが結成した「洋風版画協会」と合流し「日本版画協会」となり、会長に岡田三郎助、副会長に山本鼎が就いた。のちに山岸主計、武田新太郎、小林朝治、武井武雄、武井吉太郎、上野誠らが会員として加わり、昭和16年には石井鶴三が会長となった。

昭和に入って信州各地でも地域に根ざした版画活動が行なわれるようになった。昭和8年には、須坂市で眼科医院を開業していた小林朝治や、須坂小学校に図画教師として赴任し教育版画の普及につとめていた松原忠四郎ら須坂在住の美術家10人によって美術グループ「十人社」が結成され、創作版画誌「櫟」も創刊された。同グループは昭和9年に「信濃創作版画研究会」を結成し、昭和11年に「信濃創作版画協会」へと発展させた。

終戦時には、岡谷市西堀に疎開していた武井武雄が中心となって「双燈社」が結成され、文化事業のひとつとして版画講習会を開催し、のちに版画部の設立へと発展した。ここから、武井吉太郎、小口作太郎、増澤荘一郎らの版画家が育ち、信州版画の戦後の発展に貢献した。

武田新太郎(1886-1957)たけだ・しんたろう
明治19年北安曇郡小谷村生まれ。長野県師範学校を卒業して隣村の南小谷小学校に赴任したが、2年で退職して東京美術学校師範科に入学、岡田三郎助らに師事した。同校卒業後は奈良県師範学校の教員となった。この頃創作版画に惹かれて版画制作を始めた。大正13年京都市立二条高等女学校に赴任。昭和3年第9回帝展に初入選。以後も出品した。昭和4年徳力富吉郎、麻田辨自、亀井藤兵衛らと京都創作版画協会を結成。昭和7年の関西創作版画協会展にも中核作家として参加、関西の創作版画活動の中心のひとりとして活動した。昭和32年、71歳で死去した。

北沢収治(1890-1960)きたざわ・しゅうじ
明治23年北佐久郡南大井村(現在の小諸市)生まれ。柏木新三郎の二男。明治30年横浜市の森山家の養子となり、横浜商業学校に入学。明治45年石版画師の細井種生に師事して版画技法を学んだ。大正5年日本水彩展に入選、翌年二科展に油彩が入選した。同年第1回日本創作版画協会展に「森山収治」の名前で出品。大正9年木曽の福島小学校に赴任、以後長野県内で長年教職をつとめた。昭和3年松本昇、向坂次郎、中西義男らと淡交会を結成。同年柏木姓に戻り、中塩田の北沢家の婿養子となった。昭和6年日本創作版画協会が改組され日本版画協会になった際には創立会員に加わり、春陽会にも出品した。戦後は中塩田の自宅に戻り農耕生活に入り版画制作からは遠ざかった。昭和35年、70歳で死去した。

山岸主計(1891-1984)やまぎし・かずえ
明治24年上伊那郡美篶村(現在の伊那市)生まれ。明治39年上京し、木版彫刻家の武藤季吉に師事し木彫を学んだ。その後、読売新聞社木版部に入り木版部長となったが、大正5年退社し、葵橋洋画研究所で黒田清輝らに学んだ。この頃から創作版画を志すが、主に木版彫師として活動した。大正15年文部省より欧米各国版画視察の委嘱を受け、3年間で15カ国を訪問した。昭和6年日本版画協会に加入、シカゴ、パリの国際版画展にも出品した。戦中は報道班員として従軍し、戦後は占領軍に版画を教えた。小野村に疎開後は、箱根や藤沢に住んだ。昭和59年、94歳で死去した。

松原忠四郎(1893-1974)まつばら・ちゅうしろう
明治26年木曽郡福島町生まれ。木曽山林学校卒業後、横浜に出て木曽出身の建築家・遠藤於菟のもとで働いた。この頃に版画に惹かれ、木版画を平塚運一に、エッチングを田辺至に学んだ。大正8年須坂小学校図画専科教員として赴任、以後34年間美術・版画教育につとめた。昭和8年には須坂在住の美術家団体「十人社」の創立に参加、創作版画誌「櫟」の編集などにも携わった。昭和49年、81歳で死去した。

武井武雄(1894-1983)たけい・たけお
明治27年諏訪郡平野村(現在の岡谷市)生まれ。大正8年東京美術学校西洋画科卒業。1年間同校研究科に在籍し、この頃から「コドモノクニ」などに童画を寄稿するようになった。大正13年武井武雄童画展を開催。新造語「童画」で子どもの世界を描いた絵の自立性を主張し、昭和2年には初山滋、村山知義らと日本童画家協会を設立した。郷土玩具の収集につとめ、昭和4年から「おもちゃ絵諸国めぐり」「日本名玩具集」を刊行。昭和9年から「赤ノッポ青ノッポ」を朝日新聞に掲載した。版画家としての仕事も続け、昭和19年日本版画協会会員に推挙された。昭和20年には郷里の岡谷市で双燈社を結成して後進に版画を教えた。のちに再上京して日本童画会を結成、児童出版関係美術家の社会的地位の向上につとめた。昭和58年、88歳で死去した。

小口作太郎(1895-1966)おぐち・さくたろう
明治28年諏訪郡平野村(現在の岡谷市)生まれ。上京して電気関係の研究に従事。帰郷後鉄工所を経営した。昭和22年双燈社主催の版画講習会に参加したのをきっかけに武井武雄に師事し版画制作を始めた。昭和24年日本版画協会展に初入選し、以後同展に出品した。昭和28年岡谷市で開催された第1回全国版画教育研究大会の開催に尽力した。昭和41年、70歳で死去した。

山口進(1897-1983)やまぐち・すすむ
明治30年上伊那郡東箕輪村(現在の箕輪町)生まれ。大正9年に上京し、葵橋洋画研究所で黒田清輝、中川紀元らに学んだ。日本美術学校にも通っていたが、大正11年中退。日本農民美術研究所などで木版画を学んだ。大正12年日本創作版画協会展と日本漫画展に初入選。大正14年旧制第一高等学校職員となり、一高画会で指導にあたった。油彩も手がけ、大正15年油彩画が第7回帝展に入選、以後帝展、文展、日展に出品した。昭和2年ロサンゼルス国際版画展に出品。昭和3年日本創作版画協会会員となり、昭和6年同会と洋風版画協会が合流して発足した日本版画協会の会員となった。終戦後、教職を辞して郷里に戻り、制作に専念した。山岳風景、あるいは登山を題材に、信州の山岳を描いた風景版画が多い。昭和58年、86歳で死去した。

小林朝治(1898-1939)こばやし・あさじ
明治31年須坂市生まれ。本名は袈裟治。大正14年金沢医科大学を卒業。同校眼科助手を経て昭和2年に愛媛県吉田町の吉田病院に眼科医長として赴任した。学生時代から油彩画に親しんだが、畦地梅太郎の影響で版画制作を始め、勤務のかたわら国展版画部などに出品した。昭和4年吉田町で個展を開催。昭和6年「吉田風物画帖」を出版。同年帰郷し須坂に眼科医院を開業した。昭和8年須坂在住の美術家団体「十人社」を結成。同年創作版画同人誌「櫟」を創刊した。昭和11年日本版画協会会員に推挙され、同年信濃創作版画協会を設立した。昭和14年、41歳で死去した。

中西義男(1899-1965)なかにし・よしお
明治32年木曽郡楢川村生まれ。大正6年上京し、太平洋画会研究所に学んだ。大正8年帰郷し松本小学校の代用教員となった。大正10年北沢収治らと木曽福島町で展覧会を開催。大正13年暮から木曽福島小学校で代用教員をつとめた。大正14年上田市の日本農民美術研究所の研究員となり山本鼎、倉田白羊に師事。昭和3年日本創作版画協会会員となった。信州の風俗に取材した木版画を多くつくった。晩年は山本鼎の推薦で児童雑誌「キンダーブック」に童画を発表した。昭和40年、66歳で死去した。

渡辺進(1900-1961)
明治33年東京市本郷区(現在の東京都文京区)生まれ。大正7年開成中学校を卒業し、日本美術院研究所洋画部に入所、山本鼎に師事し、農民美術運動などに参加した。大正8年日本創作版画協会第1回展に出品。大正11年日本農民美術研究所の調査部員となり内外産業工芸品の蒐集を担当。大正13年「農民美術」が創刊され、2号から編集・発行人となった。同年から日本農民美術研究所の調査部員と出版部員を兼務した。昭和11年まで上田に住み、春陽会に油彩を出品するほか、日本創作版画協会展にも出品を続け、昭和6年に日本創作版画協会が改組され日本版画協会になった後も引き続き会員として活動した。昭和36年、60歳で死去した。

武井吉太郎(1902-1964)たけい・きちたろう
明治35年諏訪郡平野村(現在の岡谷市)生まれ。早稲田大学在学中に、朝倉文夫に彫刻を、岡田三郎助に絵画を学んだ。帰郷後は鉄工所を経営し、そのかたわら、昭和20年に武井武雄を中心に、八幡竹邨、武井伊平、小口吉雄、吉永浄善、青木貞亮らと双燈社を結成した。武井武雄が東京に戻ってからは双燈社の中心的存在となった。昭和31年日本版画協会会員となった。岡谷市美術協会会長、諏訪美術会会長もつとめた。昭和39年、62歳で死去した。

上野誠(1909-1980)うえの・まこと
明治42年更級郡今里村(現在の長野市)生まれ。昭和4年長野中学卒業後、東京美術学校図画師範科に入学したが、翌年労働運動、学内改革運動に加わり検挙され、退学処分を受けた。長野に戻り創作版画誌などに影響を受けて建設労働のかたわら木版画の制作を始めた。昭和11年国展に初入選し、以後昭和19年まで同展に出品した。この間、東京と鹿児島で教職につき、新潟県では工場につとめた。戦後はアンデパンダン展に出品。昭和29年日本版画協会展に初入選し、昭和33年会員となった。戦前は農民や労働者の生活を描き、戦後はヒロシマ3部作など反戦的な版画をつくった。昭和55年、80歳で死去した。

増澤荘一郎(1914-1985)ますざわ・そういちろう
大正3年諏訪郡平野村(現在の岡谷市)生まれ。県立諏訪蚕糸学校を卒業後、韓国光州師範学校に学んだ。昭和14年同校を卒業して各地の小学校に勤務したのち、昭和20年帰国。昭和22年双燈社版画部に加わり、武井武雄に師事し、教職のかたわら版画を制作した。昭和28年に岡谷市で開催された第1回全国版画教育研究大会の実現に尽力した。昭和36年日本版画教育協会の副委員長に就任。昭和50年信州近代版画協会(信州版画協会)創設の中心となり、昭和53年に会長になった。昭和60年、71歳で死去した。

長野(71)-画人伝・INDEX

文献:長野県美術全集 第8巻、安曇野の美術、続 飯田・上伊那の美術 十六人集、郷土美術全集(上伊那) 、信州諏訪の美術(絵画編)、上田・小県の美術 十五人集、続 信州の美術、信州近代版画の歩み展、渡辺文庫目録、長野県美術大事典、美のふるさと 信州近代美術家たちの物語




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