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日本近代美術の発展に関与し続けた石井柏亭

石井柏亭「滞船」

石井柏亭「滞船」

石井柏亭(1882-1958)は、明治期に日本初の洋画団体・明治美術会やその後継団体である太平洋画会に出品し、大正期には日本水彩画会や二科会の創立に参加、昭和期には一水会を組織するなど、日本近代美術の発展に関与し続け、大きな役割を果たした。また、詩人、歌人、教育者、編集者、批評家としても幅広い活動をした。信州にはたびたび訪れ、終戦の年に信州美術会を発足させ、自ら第2代会長に就任するなど、信州の美術振興に貢献した。

日本画家・石井鼎湖の長男として東京下谷に生まれた石井柏亭は、幼いころから父に日本画を学び、14歳頃から石川欽一郎らの影響を受けて水彩画を独習した。16歳で洋画家の浅井忠に入門、この年の明治美術会創立10年記念展に水彩画を出品、準会員となった。

明治33年からは、新境地を拓くために結城素明や平福百穂ら若手日本画家が結成した「无声会」に出品、次第に頭角を現わすようになり、明治35年、明治美術会の解散後に引き継ぐかたちで発足した太平洋画会に会員として参加した。この頃、与謝野鉄幹主宰の文芸雑誌「明星」に挿絵を寄せている。

明治37年、22歳の時にそれまで勤務していた大蔵省印刷局を辞めて、中央新聞社に入社、挿絵を担当した。同年7月には勤務時間前の午前中を利用して東京美術学校西洋画科選科に入学したが、眼病のため翌年退学、新聞社も辞めて大阪の姉のもとで療養することになった。

明治40年、内外印刷会社に入社して図案を担当。同年、山本鼎、森田恒友らと雑誌「方寸」を創刊した。この年、初めて信州を訪れ、上林温泉での水彩画講習に参加、それ以来たびたび信州を訪れるようになった。また、同年創設された文展には第1回展に入選、第3回展まで出品した。

明治43年から翌年にかけて渡欧、翌年「滞船」(掲載作品)を発表、帰国後は水彩画の普及につとめ、大正2年、丸山晩霞、石川欽一郎、戸張孤雁らと日本水彩画会を創立、大正3年には、山下新太郎、有島生馬らと二科会を創立した。

大正10年、与謝野鉄幹・晶子夫婦らと、自由主義にもとづく文学と美術の教育の場を主眼とした文化学院を創立。その翌年から東京大学工学部講師として、建築学科で自在画を教えた。大正14年には文化学院に美術部を創設して部長となり、有島生馬、山下新太郎らと指導にあたった。昭和11年には二科会を離れて、有島生馬、山下新太郎、木下孝則らと一水会を創立した。

昭和20年、松本市外浅間温泉に疎開し、その間、中川紀元、滝川太郎、小平鼎ら門人や、知人の疎開美術家に働きかけ、終戦の年、全信州美術展、長野県展の審査員をつとめ、信州美術会を発足させ、信州美術会の第2代会長に就任した。東京と松本に画室を持ち、信州大学の講師をつとめるなど、信州の美術振興や後進の育成に尽力した。

石井柏亭(1882-1958)いしい・はくてい
明治15年東京下谷区仲御徒町生まれ。石井鼎湖の長男。本名は満吉。5歳下の弟に彫刻家の石井鶴三がいる。明治28年共立中学を中退し、大蔵省印刷局の彫版見習生となり、翌年から水彩画を独習。明治31年浅井忠に師事。明治33年中村不折に師事。明治35年太平洋画会展に出品、会員となった。明治37年東京美術学校西洋画科選科に入学するが体調を崩し翌年大阪で療養生活に入った。明治40年帰京し、仲間と雑誌「方寸」を創刊。大正2年日本水彩画会結成に参加、翌年二科会結成に参加、昭和11年一水会の結成に参加した。昭和24日本美術院会員となった。三女、四女も絵を描いた。昭和33年、76歳で死去した。

参考:UAG美人画研究室(石井柏亭)

鈴木鵞湖(1816-1870)すずき・がこ
文化13年下総国金堀村(現在の船橋市)生まれ。石井鼎湖の父。石井柏亭・鶴三の祖父。天保8年頃江戸に出て、市井の画工松月に学び、画家としての道を歩みはじめた。四条派や狩野派の絵を模写して修業。のちに谷文晁の門人になった。師の文晁だけでなく同門の渡辺崋山、椿椿山、高久隆古らの作風にも関心を示し、これらを吸収しつつ自己の画風を形成した。御徒町に住み、福島柳圃、奥原晴湖ら当時の画人や文人らと交流した。明治3年、55歳で死去した。

石井鼎湖(1848-1897)いしい・ていこ
嘉永元年江戸生まれ。鈴木鵞湖の二男。石井柏亭・鶴三の父。幼少期から日本画を父に学んだ。父と交友のあった陶工の三浦乾也の養子となり、のち乾也の妻の実家を継いで石井姓になった。大蔵省紙幣寮に勤務し、銅板、石版の技術を修得、クロモ石版法の創始者としてカラー印刷で印刷史上で功績を残した。また、明治21年龍池会の審査員、翌22年は浅井忠らと明治美術会の創立に参加するなど画壇でも活躍した。明治23年内国勧業博覧会で妙技賞を受賞するなど、展覧会で種々の受賞をした。明治30年、50歳で死去した。

石井鶴三(1887-1973)いしい・つるぞう
明治20年東京生まれ。石井柏亭の弟。明治37年小山正太郎の不同舎で洋画を学び、また、加藤景雲に木彫を学んだ。明治43年東京美術学校を卒業。翌44年第5回文展で褒状。大正3年再興日本美術院彫刻部に入り、その研究所で中原悌二郎、戸張孤雁らと交流した。大正5年日本美術院彫刻部の同人となり、院展で指導的役割を果たした。油絵、水彩画、木版画も多数制作し、大正7年日本創作版画協会の創立に参加。のちに春陽会、日本水彩画会の会員となった。昭和19年から34年まで東京芸術大学教授。昭和25年日本芸術院会員になった。昭和48年、85歳で死去した。

松村三冬(1918-2014)まつむら・みふゆ
大正7年東京都生まれ。石井柏亭の三女。昭和14年文化学院美術部卒業。石井柏亭、有島生馬、山下新太郎、木下義謙に師事。文化学院在学中の昭和13年、第2回一水会展に初入選。以後同展に出品した。昭和14年から6回中国に写生旅行。昭和24年第5回日展から昭和43年の第11回日展まで出品。昭和42年から4度渡欧し、その都度長期滞在して制作した。昭和43年第30回一水会展で具方賞を受賞した。平成26年、96歳で死去した。

田坂ゆたか(1920-2018)たさか・ゆたか
大正9年東京都生まれ。石井柏亭の四女。田坂乾の妻。昭和15年文化学院美術部卒業。石井柏亭、木下義謙、中西利雄に師事。文化学院在学中の昭和14年、日本水彩画会に初入選し以後同会に出品。昭和23年から一水会展にも連続出品し、昭和43年と49年に佳作賞を受賞した。昭和42年から3度渡欧し、その都度長期滞在し制作した。昭和55年から3度中国に写生旅行した。平成30年、98歳で死去した。

田坂乾(1905-1997)たさか・けん
明治38年東京都生まれ。田坂ゆたかの夫。昭和3年文化学院美術部卒業。石井柏亭、有島生馬、山下新太郎に師事。昭和3年二科展初入選、以後同展に出品。同時に戦時中まで日本版画協会展にも出品した。昭和6年から5度中国に写生旅行。昭和13年第2回一水会展に初入選、昭和30年一水会展で優賞を受賞。昭和42年から5度渡欧し、その都度長期滞在し制作した。平成9年、91歳で死去した。

長野(57)-画人伝・INDEX

文献:石井柏亭と近代絵画の歩み展、長野県美術全集 第6巻、長野県美術全集 第8巻、信州の美術、続 信州の美術、郷土作家秀作展(信濃美術館)、信州近代版画の歩み展、松本平の近代美術、長野県信濃美術館所蔵品目録 1990、松本市美術館所蔵品目録 2002、長野県信濃美術館所蔵作品選 2002、長野県美術大事典




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