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セザンヌを日本に初めて紹介した有島生馬と二科会の発足

有島生馬「大震記念」

有島生馬(1882-1974)は、横浜市生まれだが、父親が薩摩川内市の出身で、鹿児島の画家との関わりは深い。文学者の兄・有島武郎、弟・里見弴とともに、有島三兄弟としても名高い。有島は東京外国語学校イタリア語科を卒業後、藤島武二の家に寄寓して洋画を学んだ。その後イタリアに留学し、ヨーロッパ各地を巡り、多くの芸術家たちと交流した。

明治43年に帰国、同年『白樺』の創刊に参画し、同誌で日本に初めてポール・セザンヌを紹介した。この若手画家に大きな影響を与えた「セザンヌの紹介」が、のちの在野団体創設への起点になったといえる。その後も梅原龍三郎や安井曾太郎らが相次いで新思潮を携えて欧州留学から帰国、彼らによって官展の旧態依然とした審査への不満が高まっていき、大正3年、有島生馬、梅原龍三郎らによって初の在野団体である二科会が創設された。有島に見出された鹿児島市生まれの東郷青児(1897-1978)も第3回展に初出品し、二科賞を受賞している。

昭和13年には、前衛作品を展示する九室会が正式に発足、二科本展とは別に展覧会活動を行なうようになった。この会には、吉原治良らが中心となり抽象画家やシュルレアリスム系の画家たちが集結、ソウル生まれで薩摩川内市に本籍を持つ山口長男(1902-1983)も参加した。顧問には東郷青児と帰国したばかりの藤田嗣治の二人が就任したが、戦時下では前衛活動は自由にならず、自然消滅を余儀なくされた。

戦時中は中断していた二科会だが、終戦後早々に東郷青児を中心に再建に向けて動き出した。郷里の曽於郡末吉町に疎開していた吉井淳二(1904-2004)は上京、新会員に推挙された山口長男も朝鮮から帰国した。東郷は時代を先取りし、大衆化路線や海外との交流などを推し進めていたが、昭和53年に急逝、北川民次が跡を継いだのち、吉井淳二が二科会理事長に就任、鹿児島の画壇にも大きな影響を与えていくこととなった。

東京麹町の有島生馬の自宅には多くの画家が訪れていた。二科会の東郷青児、山口長男、吉井淳二、独立美術協会の海老原喜之助ら鹿児島出身の画家たちをはじめ、児島善三郎、中山巍、田崎廣助、高田誠、小山敬三ら主義主張も会派も違うものたちが集まり、アカデミズムからの解放や自由で主観的な表現活動を求めて論議し、また展覧会も開催した。この会合は、有島家に江戸時代の旗本屋敷の名残りをとどめた黒門があったことから「黒門会」と呼ばれ、その展覧会は生馬の没後も続いた。

有島生馬(1882-1974)
明治15年横浜市生まれ。本名は壬生馬。別号に十月亭がある。兄は有島武郎、弟は里見弴。本籍地の薩摩川内市平佐で病気療養中に、イタリア人宣教師に影響され西洋への関心が高まり、東京外国語学校イタリア語科に学び、卒業後は藤島武二に師事し洋画を学んだ。明治38年から4年半イタリア、フランスに留学、帰国後は『白樺』創刊に参画し、同誌で日本に初めてセザンヌを紹介した。大正2年に文展への不満から石井柏亭らと二科会を創設した。その後官展に移り、昭和10年には帝国美術院会員となり、二科会を脱退した。同年日本ペンクラブ創設され、副会長に就任。翌年一水会を結成した。昭和12年帝国芸術院官制が制定され日本芸術院会員となった。昭和33年に日展常任理事。昭和39年文化功労者となった。昭和49年、91歳で死去した。

東郷青児(1897-1978)
明治30年鹿児島市生まれ。本名は鉄春。5歳の時に一家そろって上京した。明治42年青山学院中等部に入学、この頃から絵を学び始めた。近所に竹久夢二がいたことから影響を受ける一方、作曲家・山田耕筰の勧めで、前衛画家としてスタートした。大正5年有島生馬に認められ、二科展に初出品し二科賞を受賞、以後二科会を中心に活動した。大正10年から7年間にわたり、ヨーロッパに留学、ダダや未来派などの本場の作品にふれ、前衛から万人に好まれる絵の創出を目指すようになった。戦後は二科会の再建に奔走し、会長に就任。大衆化路線や海外との交流などを推し進め、秋の美術シーズンには幕開けに二科展開会の祭典を演出するなど話題を集めた。昭和32年日本芸術院賞受賞、昭和35年には日本芸術院会員となった。昭和47年ブラジル政府から、昭和51年にはフランス政府からそれぞれ勲章を受けた。昭和53年、第62回二科展巡回展のために訪れていた熊本において80歳で死去した。

山口長男(1902-1983)
明治35年韓国のソウル生まれ。父親は鹿児島県薩摩川内市の出身。中学時代から絵を好み、大正10年に上京して本郷絵画研究所や川端画学校に通い、翌年東京美術学校西洋画科に入学した。同校3年時には和田英作に学んだ。昭和2年同校卒業、同期の猪熊弦一郎、牛島憲之、岡田謙三、荻須高徳らと「上杜会」を結成した。同年パリに渡り、私淑していた佐伯祐三と交流した。佐伯没後はオシップ・ザッキンのアトリエに通い、キュビズムの影響を受けた。昭和6年に帰国後、二科展に初入選。昭和13年には二科会友となり、同年九室会結成に参加した。戦後は二科会会員となり、東郷青児らとともに二科会再興に尽力した。昭和28年には村井正誠らと日本アブストラクト・アート・クラブを結成。昭和29年には武蔵野美術大学教授に就任、昭和36年度芸術選奨文部大臣賞受賞した。サンパウロ、ヴェネツィアなど多くの国際展に出品し、日本の抽象絵画の第一人者と称された。昭和58年、80歳で死去した。

吉井淳二(1904-2004)
明治37年鹿児島県曽於郡末吉町生まれ。大正6年志布志中学校に入学、同期に海老原喜之助がいた。大正11年に上京し川端画学校を経て、大正13年東京美術学校に入学した。同校では3年時に和田英作に学んだ。在学中に白日会展で白日賞を受賞し、二科展にも入選、以後二科展に出品した。昭和4年に同校卒業、内田巌、新海覚雄らと「鉦人社」を結成、同年有島生馬を訪ね、以後指導を受けた。同年から3年間フランスに留学し、帰国直後の第19回二科展に渡欧作9点を特別出品し、会友に推挙され、昭和15年には会員となった。疎開先の郷里で終戦を迎え、同窓の海老原とともに、昭和21年に南日本美術展を創設し、海老原の死後は同展の審査委員長をつとめた。終戦後は、東郷青児らと二科会の再建に尽力し、昭和54年には二科会理事長に就任。昭和40年日本芸術院賞受賞、昭和51年日本芸術院会員、昭和60年文化功労者となり、昭和64年文化勲章を受章した。平成16年、100歳で死去した。

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文献:鹿児島の美術、20世紀回顧 鹿児島と洋画展




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