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反戦画家の烙印を押され画壇から去った無頼派の画家・阿部合成

阿部合成「見送る人々」兵庫県立近代美術館蔵
この作品は、出征兵の見送りを描いたもので、阿部が友人にあてた手紙によると「三十個ばかりの顔丈で構成しようと念願してゐる。熱狂した泥酔者、感動して嘆く青年、悲しみで魂をなくした女、冷静な挨拶を送る中年の男、歌ふ少年達、愚痴でしわだらけの老人、傍観者(祝出征の幟のかげに自画像と僕の不遇な従兄の顔)等の顔と手。赤ん坊は特別無関心でなければならない」とある。

南津軽郡浪岡村に生まれた阿部合成(1910-1972)は、大正12年に青森中学校に入学、同級生に太宰治がいた。阿部は、父親が青森市長をつとめるなど、名家の出で、裕福な家庭に育った大宰と出自や環境が似ており、そのことが二人を親密にしたのか、ともに同人誌「星座」を創刊し文学活動を行なっていた。阿部の回想によれば、太宰の華麗な文才に衝撃を受け、文学をあきらめ、美術の道に進んだという。

中学を出た阿部は、京都絵画専門学校日本画科に進学、卒業後は青森に帰り、従兄の常田健と美術グループ「グレル家」を結成した。この時に常田の影響を受け油彩画に転向している。青森では嘱託教員をしていたが、2年でやめて上京、太宰と再会し、詩人で評論家の山岸外史も加えて、親密に交遊するようになった。太宰のいくつかの作品の登場人物には阿部の面影が指摘されている。

昭和13年、二科展に出品した「見送る人々」(掲載作品)が初入選で特選となり、グラフ雑誌「国際写真情報」に口絵として掲載された。ところが、それを見たアルゼンチン駐在公使が「頽廃不快の印象を与へ日本人とはどうしても思へない」と取締まりを要請、新聞でも大きく報じられ、阿部は反戦画家の烙印を押され、官憲にマークされるようになった。以来、阿部はあらゆる公募展と絶縁、やがて画壇から遠ざかっていった。

昭和18年に疎開で青森に帰るが、召集を受け満州を転戦。終戦後シベリアで2年間抑留生活を送ったのち、昭和22年に舞鶴に帰還した阿部は、青森に直行せずに三鷹の太宰を訪ねた。二人は痛飲し、夜が明けると太宰は二重マント姿で、阿部を三鷹の駅まで見送ってくれた。阿部が見た最後の太宰の姿だった。翌年太宰は入水自殺を果たす。

「強烈な火を噴く様なもの」を表現したいと念願していた阿部は、昭和34年にアメリカ経由でメキシコに渡り、2度の個展で成功をおさめ、人生2度目のピークを彼の地で迎えた。帰国した阿部は、昭和40年、太宰の故郷である金木町の芦野公園に太宰治碑を建立した。それ以後の阿部の作品は、道化や聖書など、太宰と共通するようなテーマが数多くみられるようになった。

無頼派と呼ばれた太宰治だが、阿部合成もまた無頼派の画家だった。美術批評家の梅原猛は、黒田猛著『阿部合成と太宰治』に寄せた序で「無頼派というのは、その強すぎる羞恥心ゆえに、悪魔の仮面をかぶって、精神の自由と芸術の創造のために戦う、聖なる騎士ではなかったか」としている。

阿部合成(1910-1972)あべ・ごうせい
明治43年南津軽郡浪岡村生まれ。大正6年父の政太郎が青森市長に就任したため一家で青森市に転居。大正12年青森中学校に入学、同級生に太宰治がいた。大正14年太宰らと同人誌「星座」創刊。昭和4年京都絵画専門学校日本画科に入学。昭和9年同校を卒業、青森に戻り嘱託教員となった。昭和11年上京、独立の研究所に入り、前衛美術研究会を作る。野田英夫、寺田竹雄の壁画家協会で学んだ。昭和12年杉並区大宮前にアトリエを設立。太宰治と再会し、山岸外史とも親交を結ぶ。昭和13年二科展に「見送る人々」が初入選し特選となるが、アルゼンチン駐在大使の糾弾によって反戦絵画の烙印を押されマークされる。昭和18年疎開により青森に帰るが、召集を受け満州を転戦。敗戦後シベリアで2年間抑留生活を送る。昭和22年舞鶴に帰還。三鷹の太宰治を訪ねたのち、帰郷したが、農地改革により資産を失う。昭和23年太宰の入水を知り上京。昭和27年再上京。昭和34年アメリカ経由でメキシコに渡り、日墨会館に部屋を与えられ制作を行なう。昭和35年メキシコ国立近代美術館で個展、同年帰国。昭和38年再びメキシコに旅行。昭和39年メキシコで2度目の個展を開催。ヨーロッパなどを旅行し帰国。昭和40年太宰治の故郷・金木町芦野公園に太宰治碑を制作。昭和47年、62歳で死去した。

青森(42)-画人伝・INDEX

文献:阿部合成と太宰治修羅の画家 評伝阿部合成、太宰治と美術、東北画人伝、青森県史 文化財編 美術工芸、青森県史叢書・近現代の美術家、青森県近代洋画のあゆみ展、東奥美術展の画家たち




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