信濃国下高井郡松川村(現在の中野市松川)の豪商の家に生まれた関長年(1813-1877)は、20歳の時に江戸に出て四条派の大西椿年に師事し、師の一字をもらい「長年」と号した。26歳頃には長崎に出かけ、動植物写生帖を収集し、中国人から隷書や音楽などを学んだ。
天保10年からは京都に住むようになり、絵画ばかりでなく、茶の湯、生花、漢詩、琴などを嗜んだ。画は四条派の師風を守り、48歳で法橋となり、4年後には法眼の位を得た。明治維新後は、郷里に帰って画塾を開き、児玉果亭らを教えた。
長年が果たした中野の文化への影響は大きく、「中野土びな」の創始者である奈良栄吉が京都伏見から土雛の人形型を導入する際にも、長年が相談にのり支援したといわれている。
また、上田藩士の服部元戴(1801-1882)も、江戸に出て大西椿年に師事し、さらに京都で岡本豊彦に師事した。四条派の画家となったが、途中から上田藩士として士分に戻り、明治維新後は、士分から解放され、四条派の枠を越えた自由な作画を行なった。
関長年(1813-1877)せき・ちょうねん
文化10年下高井郡松川村(現在の中野市)生まれ。豪商・町田忠右衛門の二男。名は信。14歳で関家の養子となった。天保3年、20歳の時に江戸に出て大西椿年に師事した。天保9年椿年から長年の号を与えられた。26歳で長崎に行き、清国人から隷書を学んだ。茶の湯や琴の演奏でも知られた。四条派の師風にそった人物画や花鳥画を描き、安政6年法橋位を、さらに文久3年には法眼の位を得た。明治維新の動乱期に帰郷し、中野東町に住んだ。門人に児玉果亭がいる。明治10年、65歳で死去した。
服部元戴(1801-1882)はっとり・げんたい
享和元年上田城下丸堀生まれ。上田藩士の二男。名は義則、通称は宇左衛門。別号に宇斎がある。16歳頃に江戸に出て大西椿年に師事した。2年後には京都の岡本豊彦に師事した。長兄の死後、生家でもめごとがあり、40歳で士分に戻り、59歳の時に上田藩勘定奉行になった。明治維新後は士分から解放され、中国故事や花鳥、山水など、流派にこだわらず自由に描いた。明治15年、82歳で死去した。
長野(20)-画人伝・INDEX
文献:長野県美術全集 第1巻、長野県美術大事典