画人伝・長野 南画・文人画家 山水・真景 中国故事

柳沢文真、加藤半渓ら佐久・上田の南画家

柳沢文真「商山四皓之図」

柳沢文真「商山四皓之図」

柳沢文真(1832-1915)は、南佐久郡桜井村(現在の佐久市)に生まれた。父の柳沢文叔は谷文晁に師事した南画家で、文真も8歳のころから谷文晁に師事し、文晁没後はその子・文二、門弟の高久靄厓、父文叔に学び、彩色は吉城楽山、神田宗庭に学んだ。江戸に22年間住み、文久2年の父の死去により佐久に戻り、名主などの公職をつとめた。

加藤半渓(1841-1905)は、南画家・加藤半山の子として大阪に生まれた。父の半山は佐久郡前山村(現在の佐久市)の生まれで、少壮の頃に村を出て各地を放浪、大阪で岡田半江に師事して帰郷したが、再び旅に出た。半渓は父に学び画業を継いだが、放浪癖も父譲りで、酒を好み、世俗に馴染めず、家庭を妻にまかせて各地を放浪遊歴した。

上田藩士の家に生まれた田中亭山(1838-1913)は、明治4年の廃藩置県で職を失い、上京して画と和漢を学んだとされ、多彩な作品を残している。小県郡富士山村(現在の上田市)に生まれた峰村香圃(1859-1909)は、上京して福島柳圃、滝和亭に学び、帰郷後は上田で多くの門人を育てた。

小県郡塩川村(現在の上田市)に生まれた笹沢櫟亭(1855-1935)は、児玉果亭に師事し、果亭没後に、南画家を中心とした全県規模の美術団体・信濃美術会を上田町において発足させ会長に就任した。

小県郡丸子村(現在の上田市)に生まれた土屋泉石(1873-1938)も、児玉果亭に学び、教鞭についたのちハワイに渡り作画活動を続け、50歳で帰国したのちは、画業のほか、作詩、作曲、文筆活動、琴・尺八の演奏から俳諧まで多彩な活動を展開した。

柳沢文真(1832-1915)やなぎさわ・ぶんしん
天保3年南佐久郡桜井村(現在の佐久市)生まれ。南画家・柳沢文叔の子。本名は昇太郎。谷文晁や父から絵を学び、一晁、文進とも号した。明治10年、長野県職員となって第3回内国勧業博覧会の事務を担当、上京して出品物の説明をした。翌年千曲川源流および支流の実測図を作成した。明治19年に東洋絵画共進会で褒状を受け、石川県絵画品評会や秋田伝神画会でも褒状を受けた。山梨師範学校発行の日本地理教科書の挿絵を描いたこともある。明治23年横浜東洋絵画展で褒賞を受賞、同年第3回内国勧業博覧会に長野県から出品人総代ならびに説明人として上京し、1等褒状を受けた。たびたび宮家に作品を献上した。大正4年、83歳で死去した。

加藤半渓「赤壁図」

加藤半渓「赤壁図」

加藤半渓(1841-1905)かとう・はんけい
天保12年大阪生まれ。幼名は春之助、長じて芳。南画家・加藤半山の子。父から画の手ほどきを受け、漢籍を学び、奇痴道人とも号した。また、長崎で清人徐雨亭に学んだ。明治9年、妻を伴って前山村に転居し作画を続けたが、家計は苦しく、妻が松代の製糸場につとめた時期もあった。長井雲坪、児玉果亭と交流し、佐久の各地や群馬県下を歩いて揮毫した。明治15年東京に出て高森碎巌、渡辺小華と交遊し、明治17年には第2回内国絵画共進会に出品した。明治34年に佐久の野沢に画室「無声詩居」を建てて落ち着いたが、明治37年頃に臼田町に転居し、翌年東京の長男宅に移った。明治39年、65歳で死去した。

田中亭山(1838-1913)たなか・ていざん
天保9年上田生まれ。上田藩士。田中灌水の長男。本名は鼎三。学問や絵について誰に学んだかは分っていないが、花鳥画、山水、人物のほか、道釈人物もよく描いている。上田で写真家をしていたという資料もある。明治43年蔵沢寺薬師堂の格天井48枚に歴史画を描いた。大正2年、76歳で死去した。

峰村香圃(1859-1909)みねむら・こうほ
安政6年小県郡富士山村(現在の上田市)生まれ。幼名は残命、長じて康教。明治6年、15歳の時に小山痩石に入門して8年間学び、痩石の没後は上京して福島柳圃に師事した。明治22年に柳圃が没したためその後は滝和亭に師事した。明治30年頃に帰郷して制作を続け、平林大虚、小山雪亭、坂田香畦、青木石農、関香城、竹花香巌、林竹渓、若林香竹ら多くの門人を育てた。明治42年、51歳で死去した。

笹沢櫟亭(1855-1935)ささざわ・れきてい
安政2年小県郡塩川村(現在の上田市)生まれ。本名は清十。晩年は櫟堂と号した。18歳で島田桃渓につき、29歳の時に来遊した水戸の木下華圃に学んだ。明治19年に南画家になるのを決意して児玉果亭に師事した。明治24年京都の日本画共進会で2等賞を受賞。明治30年日本美術協会の会員となり県内外をまわって作画した。大正2年信濃美術会を結成して会長に就任。大正15年、旧満州の大連、長春、旅順の各市で個展を開催した。昭和10年、80歳で死去した。

土屋泉石(1873-1938)つちや・せんせき
明治6年小県郡丸子村(現在の上田市)生まれ。本名は菖三郎。時期は分かっていないが児玉果亭のもとで学んだ。20歳の時に丸子尋常小学校の代用教師となり、以後14年間教鞭についたのち、ハワイに渡航し、明治40年から大正12年までの16年間滞在した。その間ハウスキーパーなどで働くからわら作画活動を続け、50歳で帰国した。昭和13年、65歳で死去した。

長野(24)-画人伝・INDEX

文献:長野県美術全集 第3巻、上田・小県の美術 十五人集、郷土美術全集(上伊那) 、信州の南画・文人画、長野県美術大事典




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