UAG美術家研究所

江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま東北地方を探索中。

画人伝・山形 狩野派 宗教画

ドイツの化学者・ワグネルが開発した釉下彩陶器「旭焼」の絵付けをした狩野派の画家・荒木探令

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荒木探令 左:地蔵菩薩、右:白衣漢音

現在の新庄市に生まれた荒木探令は、10歳の時に地元の絵師・菊川淵真に絵の手ほどきを受け、18歳で上京、鍛冶橋狩野家の狩野探美に師事して狩野派の画法を学び、26歳で探令の号を許された。この頃、ドイツの化学者ゴットフリード・ワグネルと出会い、新製陶器の研究試作の手伝いで陶器の絵付けも手がけるようになった。

ワグネルが目指していた新製陶器「吾妻焼」(のちに旭焼と改名)は、白い素地に多色の絵の具を使って絵を描き、その上にヒビの生じない釉薬をかけて焼き上げる「釉下彩陶器」で、絹や和紙に描いた日本画の趣を陶磁器に与える効果が期待された。

探令は、ワグネルの専属画家として絵付けを手伝いながら、石川県の陶器試験場で九谷陶画の向上のために指導者として筆法を教え、絵画制作においても、日本美術協会の絵画研究会で月番幹事をつとめて研鑽に励み、明治31年には日本画会の創立に参加、明治40年には正派同志会を結成し幹事となるなど、精力的に活動した。

探令は、生涯を通じて狩野派の研究と復興に力を注ぎ、常に狩野派の伝統的筆法を用いて描き、それは陶器の絵付けにおいても活かされた。大正2年には、岡本秋水、平林探溟、狩野忠信らと「狩野会」を組織し、大正5年に宗家より一代限りの狩野姓を授けられ、晩年は「狩野探令」を名乗った。

荒木探令(1857-1931)あらき・たんれい
安政4年新城生まれ。戸沢藩士・荒木勝太夫忠俊の長男。本名は丈太郎忠親。別号に六陶居士、台北画舫がある。慶応3年に新庄の菊川淵斎に絵を学び、明治8年に上京して旧幕府絵所・鍛冶橋狩野の狩野探美に入門し、明治16年探令の号を得た。明治17年ゴットフリード・ワグネルに工芸美術の指導を受け、六陶居士と称した。明治21年日本美術協会一部委員に就任。明治25年文部省より美術工芸学校教授に任命された。明治30年日本絵画協会・第3回絵画共進会で3等褒状を受賞。明治31年日本画会結成に創立会員として加わった。明治33年パリ万国博覧会に出品。明治38年日本画会第6回展の出品作が宮内庁買い上げとなった。明治40年第6回東京勧業博覧会で3等賞受賞。同年正派同志会を結成し幹事となった。大正5年狩野姓を許される。大正10年日本美術協会展で金賞受賞。門人に川島文信、戸蒔耕古がいる。昭和6年、74歳で死去した。

山形(26)-ネット検索で出てこない画家

文献:画家・荒木探令の足跡、最上の歴史、院展にみる山形の美術100年







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